忘れてました


拍子抜けを通りすぎて「はぁ?」と力も抜けガクッとなることが仕事であるけれど、そのひとつが「忘れてました」とあくびれもなく言われること。

ほう・れん・そうなど皆無の我が職場。この「ほう・れん・そう」自体がおそらく日本固有の習慣であり職場教育なのだろう。フィリピンはもとよりアジアでみたことがない。そこで、同僚アシスタントに頼んで数日になるがまったく音沙汰がない時(ここですでにいやな予感がしている)、進捗がどうなっているのかな~(待っているのだけど仕上がりはいつかな)というときは、すかざす「ところであの仕事どうなった?」とリマインドするに限る。ほぼ、「あ、忘れてました」というセリフが満面の笑顔とともにかえってくる。同じアジアとはいえ、日本でこんなこと言ったら、クライアントは激怒するかもしれないし、内部でもなかなか「忘れてました」と正面きって言えないもの。その点、フィリピンの社会は日本の謝罪文化と対極にあるともいえる。「やろうとは思っていたけど忘れちゃったんだもん、仕方ないよね。ま、思い出してよかった。今からとりかかるか」みたいな感じ。「忘れていてすみません」といえばまだいい方で、言わない人も普通に多い。そこに目くじら立てるようでは、こちらもまだ日本を引きずっている証拠ともいえよう。

ここではアウェイの私は、とにかく忍耐強く、しかし時々チェックをするしかない。このチェックたるや、怠ると後で何か発覚した時が大変になるので、まさに日本ではしなかったレベルで度々リマインドという名のチェックをすることになる。しかもそうした進捗や状況確認を適宜しないと、コミュニケーション不足(しかもこちらに非があるような響きで)などと言われるから性質が悪い。ここまでしなくちゃならないのか、などという雑念はわきに置いておいて、笑顔で「ところで例の〇〇はどうなった?水曜日までほしいのだけれど」などと、既に伝えてある期日を再強調することになる。

先日もあるミーティングに30分ほど遅れてきたスタッフに、どうして遅れたの?と後できいてみると「忘れてたから」とふつうに話す。しかも、この「忘れてた」が理由になるというか言い切る姿勢はてっきりフィリピン人の傾向かと思っていたら、どうもそうでもないようだ。最近、別件のメールで「ごめん、忘れてた」というメールが米国から飛び込んできた。忘れていた、と平気で(満面の笑顔で)いう、しかも特段わるいことではない(人間だもの仕方ないでしょ、みたいな)感覚はどうもフィリピンだけの専売特許ではないのかもしれないと思う今日この頃。

4月ー新年度の始まりとともに、桜の時期でもある。今年は桜の開花が1週間ほど早かったようだ。 近所の、我が家から少し離れたお宅の庭の桜の木。見事な色の重なり、桜のシャワーに思わず立ち止まる。圧巻。しかもお庭にあるのはこの木のみ。いき! cherry.jpg

基準は自分?

いまさら、インド人の自分が正しい、というオレ様的態度に驚きはしない。それでも、この余りある自信は一体どこから来るのだろう、と思う人に会うことがある。あくまでも傾向としてだが、根拠のない自信に満ちあふれているのはフィリピン人やインド人が多い。ひとつには、おそらく小さい頃から自信を持って生きるように育てられているのだと思う。特に、フィリピンの子供は「あなたは素晴らしい、みんなあなたが大好きよ」とほめられつづけ(決して叱られず、あまやかされ)大きくなる。

今朝、我々はミーティングに向かう移動中であるインド人と歩いていた。朝9時から始まる予定でそれに間に合うかやや心配になりながら、だんだん私は足早になっていた。ところがそんな私を見て彼曰く、「何も心配ないよ。我々の到着した時間が正しい時間だ。それより前は早く来すぎ、遅くは遅刻」と言い切る。どうしてそんな考え方ができるのだろうと思っていたら 「こういう見方もあるということさ。ま、僕はいつもそういう考え方をするけれどね」

昔の同僚だったインド人も言っていたっけ。「インドは人口が多いからね。それは学校に入る試験だけでなく、仕事ひとつとっても競争相手が多いということ。そうなるとインド人の間では目立つしかないんだよ。そうして生き残るには自分中心に考えるしかないように刷り込まれていくんだ」

逆に、まず日本人にはいかにも自信家をみることはない。たとえ自信家の日本人がいても、まあこの人ならそう思うのも頷ける、といったケースはある。鼻につくくらいの自信家に会ったことがあるとすれば、学者や研究者くらいだろうか。自信は謙譲を美徳とする日本社会に相容れないのかもしれない。かつて「自信のある日本人」は「自信のないアメリカ人」と等しくあり得ないニュアンスに感じる、と言われたことがあり、なるほどと思った。問題は、そういう日本人がそのまま海外で過ごしているとやりづらい、楽ではない。下手をすれば「あの人自信がなさそうで仕事ひとつ頼めない、信頼できない」と言われかねない。ありのままの自分を保ち受け容れてもらいながら、必要な時には堂々と主張する―この辺のバランスがなかなか難しい。一部しか知らないことをあたかも知っているかのように話す、ハッタリに近い話しぶりも、仕事のスキルの一つと感じる今日この頃である。

フィリピン人の働き方をみて日本の働き方改革をおもう


フィリピン人は友達にするにはいいけれど一緒に仕事するのはちょっと、言われる。個人差はあるので一概には言えないものの、あまりに個人差がありすぎで平均的に仕事ができる中間層がほとんどいないように思う。


フィリピンに来て2年。自分ではもう慣れたつもりでいたけれど忘れた頃に思い出されるのがお店で遭遇するスタッフの適当さ。いや、適当というより「いい加減さ」、「責任感のなさ」と言い換えることもできる。私は、食料品などの必需品以外の買い物は滅多にしない。それがたまに買い物に行くと内心ためいきとともに思い出すのがこの接客の店員のまずさである。特にモールにあるお店のスタッフ。不思議なことに、妙に持ち場にいるスタッフの数が多い(はっきり言って無駄にやたらいる)ので、たいがいおしゃべりをしているかスマホをいじっている。それでも、品物について聞いてもまず答えは出てこない。何も特別なことを聞いているわけではない。たとえば、「花瓶の売り場はどこですか」「これはランニングシューズとして使えるもの?」といった程度のことだ。先日の、靴屋の一角に並ぶスニーカーをみて、ランニング用かどうかを聞いたところとしれっと言う。

「知りません」

「なら知っている人を探して聞いてきて」

するとその彼、たまたま手に持っていたハサミを指でくるくる回しなが鼻歌まじりにゆったりと歩いていく。その様子を見るといかにもやる気なさそうで、日本だったら「おちょくっているのか」と思いたくもなる。そして、ようやく探して来たと思われる知ってそうなスタッフも知らなかった、なんてオチはざら。

また、ようやくたどり着いた花瓶売り場でのこと。ある花瓶の高さと直径のサイズを聞くというと、「わかりません」「メジャーを出して測って」「メジャーありません」と平気でいう。「この広い店内のどこかからメジャーを借りてきて測って」というと、ようやくどこからともなくメジャーをもって現れる。具体的に何をしてほしいかを言わないとテキもさるものまったく動かない。察しとか配慮はここにはない。言われたこと、決められたことだけをする。それ以外のことを、たとえ客が喜ぶとしても想像力を働かせて動くとか提案するなど、夢のまた夢である。


対して、日本の接客業といえば質の高いサービスが有名で、買い物をする日本人にとっては当たり前にすらになっている。バイトの学生でもそれなりの対応ができるよう教育、研修されている。概して日本のサービス業は店員への教育をしているだけでなく、真面目な気質、それなりの責任感、教育や平均的レベルが高いことも手伝って、業種やお店を問わず顧客相手のきちんとしたサービスや接客対応が普通にみられる。これはこれで、本来はいいことなのだが、そうともいえない。顧客の依頼ならできるだけ意向に沿った形で迅速に応じる、少なくとも応じようとするーこの日本式サービスに我々消費者もすっかり甘やかされてきたし甘えてもきた。宅急便の時間指定などその典型で、私は有料化などそのサービスの見直しが進んできたことを朗報と受け止めた。少なくとも経営者側が労働改善を進めるさきがけ、いい兆候だと思った。


いま日本では「働き方改革」が話題である。顧客の過度な要求やサービスに応えようとする一部の管理者・層に対して、人間らしい生活と心身の健康を守る働き方を求める雇われ側のバランスを図るための改革であるはずだ(ここで敢えて管理者側・層と書いたのは企業だけでなく、公務員の長時間待機を前提として直前に質問を出す政治家も忘れてはならないため)。こうした改革が必要な背景要因として、高いサービスの質とて無関係ではあるまい。また一因に、雇用者側や上司に被雇用者や部下への甘えはないだろうか。勤勉な国民性を逆手にとって、適切な勤務管理がなされていなかったり軽視されていないだろうか。上司の命令とあれば多少の無理でも働くスタッフ、どんな仕事でも時間や期限を守り完遂しようとする姿勢と責任感ーそれらを当たり前のことと上に立つ者は認識していないだろうか。これは、日本では当たり前の光景かもしれないが、一歩日本の外に出ると、よほどの高給を得ているものだけがみせるある意味、特殊な働き方である。それを社会に出たての新人や若者には「社会の厳しさ」という名の下に、平均以下の給与所得者にも、下手をすれば正職員ではいパート労働者にまでも無言のうちに課しており、それを仕方のないこととして社会全体が受け止めてしまってきた。こうした見直しが必要な社会のひずみに対して声をあげるべき時で、高橋まつりさんのお母様の無念さとともに声をあげずにはおれなかったお気持ちは察して余りある。

また、裁量労働制という言葉が一人歩きしているが、一体どれだけの割合の働く人が裁量労働をしているのかを考えるとそこは優先度を下げていい。むしろ、いかなる規制を設けようとも破った(破りかけた、も含めて)雇用側に対するしかるべき罰則がなければ絵に描いた餅に過ぎない。そこで、まず以下3点を提唱する。

① 雇用側に対する罰則の規定

➁  前日の終業と翌日の始業までに一定の時間間隔を設ける「勤務間インターバル制度」の導入

③ 有休休暇と別に病気休暇(家族も含めて)を設けること。

最後の一点は期待として書いたが、せめて最初の2点からスタートすればいい働き方改革の門出になるはずだ。

プロフィール

Sainah

Author:Sainah
途上国と開発援助、農業・生態系、少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき、海外ドラマ

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