稀勢の里


大相撲春場所が終わり一夜明けても稀勢の里の優勝で盛り上がっている。稀勢の里の人気は、久々の日本人横綱の登場に対する相撲ファンの喜び、期待が大きいことは明らか。もうひとつの背景として、力士らしい顔つきと体格が大横綱北の湖を彷彿させるからではないだろうか。稀勢の里の目の辺りが、ややもするとふてぶてしかった取り組み前の北の湖の表情と重なってしまう。しかも稀勢の里の場合、いい塩梅にしゃべってくれる。北の湖ほど無口でもふてぶてしくもないし、人のよさそうな憎めないお茶目な雰囲気が程よくにじみ出ている。ちなみに北の湖もひとがよかったのかもしれないのだが、あのふてぶてしさが祖の印象を見事に打ち消していた。それでも往年の相撲ファンには忘れられない力士ーそれが北の湖だと思う。輪島、北の湖の時代、続く四横綱時代、その後の千代の富士の台頭には、必ず北の湖の存在があった。北の湖なしにはあり得なかった相撲の黄金期が確かにあった。

わたしも北の湖の現役時代は毎日のように大相撲を見ていたが、次外国人力士は高見山しかいなかった。第に相撲観戦から遠ざかっていったのは、おそらく小学生だったので相撲外のことに興味が移っていったに違いない。かくして最近は、稀勢の里の台頭もあり、ようやく少しずつ相撲をみるようになった。稀勢の里がいなかったら相撲のニュースすら見ることもなかっただろうと思うと、これも伊勢の里効果だろうか。


はや師走。マニラは10月からクリスマスの華やかな飾りがあふれているのであまり季節感を感じないできたが、年末モードに向かい始めている。そうした中、先月は、喪中のはがきをきっかけに何人かの懐かしいお声を聞くことができた。まず、大学の指導教官のS先生と奥様。先生は当時、長年過ごした米国から日本の大学に戻られて一研究室を始めた。一期生である私たちはゼロからのスタートだったが、当時のあれこれが走馬灯のごとくよみがえる。特にS先生の奥様は、お声も昔のまま。温かいお人柄も手紙の文面以上で、電話口で懐かしさを抑えきれなかった。お子さん方の近況もお話された。あの時まだかわいい盛りの小さかった娘さんも年明けにはご結婚とのこと。ひとしきりお話してから先生に替わるとこれまた相変わらず饒舌で、今も現役で大学に通勤されているとか。このままポックリいきたい、とも言われていた。他に友人、知人とも電話で話すことができた。改めて生前の母を覚えてくださる皆さまの温かいお気持ち、人とのつながりを有難く感じた次第である。

同時に、自分の先生が引退される年齢となったことを痛感する。
大学院の指導教官だったT先生もマニラに行く前にお会いしたが、今年の3月で大学を退職され関西に戻られていった。ご実家では98歳のお母様がお一人でいらっしゃるという。以来、年に数回、東京に来られるご様子。

高校の担任だった先生もこの3月で定年退職されると最近聞いた。お祝いの企画があるようだがどうも出れそうにない。それにしても、あの頃はまだ青年というか兄のような存在だった、お若くてハンサムな先生がもう定年をお迎えになるのかと感慨深かった。青春真っ只中の高校時代、先生の前でしでかした数々を思い出すと気恥ずかしくもある。

重なるもので、そうした矢先に留学中の指導教官の逝去のニュースが飛び込んできた。まだ73歳だったというが長いことご病気だったようだ。もう一度お会いすることがかなわず残念だ。

どうも、米国では親しい友人や知人がなくなったときに弔意を示す意味で、団体に寄付をする習慣があるようだ。この先生の訃報の連絡と併せて「寄付はここに」というリンクがはってあった。先日も、お母様のことを思って〇〇団体に寄付した、と米国の親しい友人よりカードが届いていた。日をおかずして、その寄付先からも「◎◎さま(母)のお名前で寄付をいただきました」と寄付のお礼連絡がきていた。日本でいうお香典やお花代に相当する習わしなのだろうか。先生の訃報を受けて、私も弔意を表すために学校への寄付を考えている。

学校卒業後もこれまであちこちでメンターのような先生にお世話になってきたが、文字通り学校でご指導いただいた師はこの4人の先生だった。こうして、師が一線を退いていく報せは往々にして予期せぬ形でくるものだ。私もそれだけ年齢を重ねていることをしみじみを感じる。

謝罪すること


小池都知事になってから、東京都の関連のニュースがフィリピンにまで届いてくる。これまでの知事は何をしてきたのだろうという問題はここではおいておく。今日は、謝る行為について。

以前、東京オリンピックの会場変更をめぐって、日本側が国際オリンピック委員会(IOC)に謝罪する一幕があった。謝罪していた日本側に対して、「謝る必要はない」とのIOCのコメントが対照的で印象的だった。

調べてみると、以下の記事が出てきた。
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国際オリンピック委員会(IOC)は2015年7月29日、クアラルンプールで理事会最終日の審議を行い、2020年東京五輪大会組織委員会の森喜朗会長らが、メーンスタジアムとなる新国立競技場の計画が白紙撤回となったことを説明し、了承された。森会長は「率直におわび申し上げたい」と謝罪した。
森会長によると、開催経費削減を柱とする改革を進めるIOCのバッハ会長は「おわびすることは全くない」と返答し、「変更は当然あるべきこと。いい方向にもっていってもらいたい。そのための協力はする」と答えたという。(
7月30日東京新聞、より)
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このニュースを聞いて、なぜこの段階でIOCに謝るのだろうと違和感を抱いた視聴者もいたのではないだろうか。主な税負担者での都民に至っては「その負担をまた都の財政に依存しようとしていたわけね」と呆れるやら憤懣やるかたない思いだったとしてもおいかしくない。ぎりぎりまでオリンピックの工事が完成しなかったリオなど、それでも直前まで工事を続け、遅延に対して謝罪する気配のかけらも見せなかった。それでもオリンピック開催後は大きな支障はでなかったではないか。

概して日本人は謝り過ぎだと思う。謝る姿勢をよしとする文化背景があるのかもしれない。もっと言えば、謝れば済むと思っていないだろうか。謝る意味合いが国によって全然違う国々と仕事を進める場合、謝罪が本当に必要なのだろうか。いまの国際社会で、やたら国として謝罪する姿勢はリスクを伴うし、国益に反するとさえ思えてくる。「日本人はすぐ謝るからね、だますのもちょろいぜ」と思われていたとしても不思議ではない。

前からうすうす感じてはいたがそれが確信に変わりつつあるのはフィリピンに住み始めてからのこと。

フィリピン人は(というか私の周囲のフィリピン人は)とにかく謝らない。仕事で明らかにミスをしても、やるべき仕事をしないで問題が起きても、原因の超本人は謝りどころか何もなかったかように涼しい顔をしている。日常の簡単な場面でも同じ。たとえば、コンドミニアムやオフィスビルのエレベーター。しまりかけたドアをボタンを押して慌ててあける(いかにも滑り込みセーフという感じで)→ドアが開く→押した当人が気がかわったのか間違えたのか乗らない→明後日の方向をむいたりそ知らぬふりをする。レジで店員かおつりを渡す→一見しておつりの額が違う→おつりを受け取った客が指摘する→okay、no problem と間違えた側が言っている。no problem じゃないよ、と思う客は私だけではあるまい。

まるで「謝る」という言葉が存在しない、その場面をみたことがない。彼らの辞書にないかのように。これをずっと不思議に思っていた。一つの説明が、「フィリピン人はプライドが高く謝らない」というもの。しかしこれが説明になるだろうか?プライドが高いのは、他の国や民族でも同じだ。ベトナムだって中国だってインドだって、もちろん日本にもそういう人はいる。謝らない人も等しくいる。それでも違うのは、非を認めて謝る人も一定の割合で存在するということだ。これがフィリピンにはない。少なくとも見たことがない。

先日も、念を押して7月末から頼んでいたある仕事が9月上旬になって全く進んでいないことが発覚した。割と簡単な仕事なのだが、毎週進捗を確認しても大丈夫だと話し、しかし締切の当日、本人がほかの人に投げて情報共有がされないまま休みに入っていた。事態が収拾した後も悪ビレもなくしている。状況を知った彼女の上司A(フィリピン人でない)が謝罪に来た。「この仕事は彼女がするから我々に任せて」とAに言われ心配ながら静観(といっても週一は状況をチェック))していた私としては、呆れてものがいえない。

また在比の長いある人によれば、謝らない理由を「親に叱られたことがないのに、他人に叱られるなんて耐えられない」からだという。本当だろうか。この世に叱らない親がいるのだろうか。これが本当なら、罪作りな親である。にわかには信じがたいところだが。「これまでいろいろな国で働いてきたけれど、フィリピン人は一緒に働くにはもっとも難しい部類に入ると思う」とある人が言うと、賛同者が次々に出てくる。う~む、アウェイの私としてはもう少し観察してみることにしよう。

母の誕生日


今日は母の誕生日。生きていれば喜寿の祝いだった。
思ったよりも早く、静かに逝ってしまった母。
とても安らかな、穏やかで満ち足りた表情をしていたのがせめてもの救い。それでも日本人女性の寿命を考えれば、あと10年は生きながらえたのにとも思えてしまう。

いい人生だったと親しい方々が言って下さった。家族から見てもそう思う。
子育てや親の介護を終えた後は、存分にやりたい音楽の仕事や趣味の俳句やパズル、旅行を楽しんでいた。私と違って社交的で交友範囲や友人が多く、家にもよく人を招いていた。時には縁結びなどのお世話までしていたが、孫の成人や結婚を見届けられなかったことだけが唯一の心残りだったかもしれない。

家族葬という話も出たが、それはおばあちゃんらしくないと孫たちも口々に言ったこともあり、好きな音楽と友人に見送られ母らしいお葬式になった。天国の母も喜んでいると思いたい。

とかく母親とはそういうものかもしれないが、娘の私が何か決断し行動しようとすると必ず一言あったもの。それでも母なりに理解しようとして徐々に、最後は応援してくれるようになるのが常だった。これからは、天国の母に考えを仰いでみる時もあるかもしれない。

改めて、お誕生日おめでとう、お母さん。

熊本


熊本を初めて訪れたのは高校生の時だった。当時、単身赴任していた父を訪ねて大分に行き足を延ばして熊本は阿蘇の村を訪れた。そこには両親の友人のG夫妻が住んでいた。お仕事や子供の学校の関係で平日は熊本市内の家で過ごし、週末は阿蘇の麓の村で過ごすという羨ましいような生活スタイルを実践されていた。熊本で教鞭をとっていたアメリカ人のご主人がモンタナを思い出す、という理由で阿蘇の麓に家を買ったと話していた。

あろうことか、そこにお邪魔している間に私は中耳炎になり併発して高熱を出した。とにかくフラフラで歩けないのだ。出された薬もアメリカの薬だったのだろう、ショッキングピンク色の液体ゼリー状の薬をすぐさま視覚が拒否したことを覚えている。そこですがるように村の診療所に行った。ひとめ見て、この先生ならと思えるような村のお医者さんだったが、その時はぼうっとしていてお名前も覚えていない。診療所でいただいた薬をのみ寝て過ごした最初の阿蘇滞在だった。

その思い出を払拭すべく熊本を再訪したのはもう5年くらい後だっただろうか。当時、中学生だったお子さんたちも家を離れ米国の高校生に通っていた。その時、奥様のHさんに言われたこと
「あの時の恩返しを私たちにしようだなんて思わなくていいのよ。これから生きていくうえで違う形で誰かに返していけば十分なのだから」
なるほど、そういう考え方もあるのかとハッとしたものだ。G夫妻の会話はいつも新鮮で、熊本での子育て、特に「ハーフ」の子供の苦労、お隣の韓国についてなどもお聞きするなど、インターネットもない時代の子どもにとっては外国への窓そのものだった。

大学生2年の春休み、G夫妻の計らいで熊本大学の学生に混じって2か月の米国横断旅行をした。初めて米国の普通の人々のくらし、また民族や考え方の多様性に触れるなど、見聞きするものすべてが刺激的で新鮮だった。その後も何度かG夫妻にお会いしたが最後にお会いしたのは2012年6月。その後はご無沙汰していた。確か熊本を離れアメリカに戻ったようにも仄聞した。いま、阿蘇のお宅はどうなっているだろうか。阿蘇の村での懐かしい記憶を思い出とともに、何とも心が痛む。



これだけの大きな地震の被害を受け、熊本の方々の疲労と不安は察して余りあります。何かできることはないかと思いながら、その時が来るまで準備し力を蓄えて待ちたいと思います。
プロフィール

Sainah

Author:Sainah
仕事&興味:途上国と開発援助 [セクター] 農業・自然環境・生態系
少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき

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