夕食前のできごと


ラオス最終日のこと。その日は朝からミーティングだった。ときどき本質的かつ根源的な問いかけともとれる発言が飛び出し、活発な議論が進む。会議は無事終了。この地域発のメッセージとして、将来的に何が打ち出せるのだろうか。とくに今回はいろいろと勉強になったことが多い。帰ったら、ぜひともいい方向への展開につなげたい。

その後、夕食前のひととき、街を散策。メコン河がゆったりと流れている。メコンへ合流するナム・カン川は「赤ちゃんがハイハイするようなスピード」という意味があると教わる。何とも静かでのどかな景色がラオスらしい。
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今回の会議の参加者でもある中国のDさん 。まだ20代の女性である。参加者のなかの女性二人ということで、マーケットに買い物に行こうと誘われる。今まで何回か来ているし、あまり買い物をする気でもなかったのだが、街を歩くくらいならいいかとついていく (← この主体性のなさ ^^;)。

あるお店の前で足が止まる。民族色の香り漂うティッシュボックスケースが目を引いた。ラオスは多民族国家でもある。このマーケットには、近隣の農村だけでなく遠い地域からもやってくる民族が出店していると聞く。思わずそのうちの2種類に興味を示し、手にとってみると、「断然こっちよね」と頼みもしないのにDさんが決めてくれる。それどころか、すでに交渉を始めているではないか

「4ドルです」売り手の中年女性が口火を切る。
「ダメダメ、それじゃ話にならないわ。その値段のはずないでしょ」
あたかも地元の相場を知ったかのような口ぶり。ちなみにこのD嬢、ラオスは初めて。
「じゃあいくらなら出す?」(←買う側が渋るとまず売る側から出てくるセリフ)
「そうね、これだとせいぜい1ドルまででしょ」
(「いきなり1ドルから?!」とその下げ幅に思わず驚きを示す私 。それを手で制する無言のD嬢。真剣な目)
「では2ドルでどう?」
「いったでしょ、1ドルよ。最大で1ドル」
「しようがない。1.5ドルならまだいいけれど」
「1ドルよ、はい」
と言うが早いか、相手の手にお札をつかませる。しかもドルで交渉していたはずなのに、D嬢ときたら勝手に換算してラオス通貨のKipを渡しているではないか(*)。相手も笑いながら了承する。

驚くべきことにD女史(に格上げ)は、最初から一歩も譲っていない。思いっきり日本人の私など、4ドルを提示されたら、頑張ったとしても2ドルから始めただろう。下手すると3ドルでも払ってしまいそうだ。それどころか、あのD女史の、ちょっとやそっとでは動じない姿勢と気迫に、思わず華僑の血を感じてしまう。そもそも、「高価な買い物でもあるまいし、たかが街中の散策ついでの買い物だから、適当に楽しめばいいのでは?」と言ってはみたものの、「これがフツウ」と言い切る相手に通じる気配はない。また言うことがいい。
「これは私からあなたへのプレゼントよ。受け取ってね」
プレゼントを値切っていたとは、ね・・・。

でもDさん、いろいろどうもありがとう。ご一緒できて楽しかったです。

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*
宿泊していたホテルの玄関脇に、一枚のお札(拡大コピーではないだろうか?)が貼ってあった。
みると「あなたはKipを愛していますか?」というメッセージが印刷されている。Kipとはラオスの
貨幣単位で、2009年5月現在で1ドル=8500Kipほど。この1年、レートはあまり変動していない。このメッセージの意図として、「ドルでなくもっとKipを使ってくださいよ~」だそうだ。このメッセージをD嬢は知っていたのか。そのはずはなかろう(キッパリ)。


無事帰国

帰りのフライトキャンセル(別のフライトへの変更→出発が予定より2時間後に→待ち時間の増大)の副産物として、急遽、バンコクに住む友だちとその家族に再会することができ、とてもうれしい時間だった。新天地でがんばっている彼女をみて、私もまたエネルギーが湧いてきた思い。

久しぶりのバンコクだったが、街中に日本語が溢れているばかりか、日本語の本屋もところどころあって驚いた。タイはもう援助卒業国に近いかと思っていたが、昨年できたバンコクの新空港は日本の円借款で作られたようだ。10月開通予定の、空港まで直結する線(電車)の工事も進んでいた。これで少しは、市内の渋滞が緩和されるだろうか?

午前の便で成田着。行きも帰りも機内はかなり空いていた模様。それにしても、このスーツケースの中で眠っていた大量のマスク はなに(爆)?持って行かされたけれど一枚も使わずに終わる。




BKK着

もういい加減慣れてしまったけれど、出発の朝になって帰りのフライトまでキャンセルの憂き目に。でもバンコクまでは予定通りに行けるので、その先はあまり心配はしていない。これもつもり効果か?

バンコクで待ち時間が8時間近くあるため、市内まで足を伸ばすことに。その前に、一緒にいた一人(中国人、Lさん)はビザの申請を始める。係の人を前に、彼はたまたま居合わせた同胞とおぼしき人を相手に、なにやら話を始める。みるからに若く、もしかしたら学生かもしれない中国人女性。
みるともなくみていると、どうみても話をしているというよりは、議論か言い争いをしているかのようだ。しかも、尋問とも詰問とも言えるような調子とジェスチャーで、中年のLさんが娘ほどの年齢の女子学生に責め立てられているとしかみえない。その場を支配したムードは「いったい何が始まったんだ~?!」
それでも誰も追求しない、いや、そんな勇気はもてない雲行き。その証拠に、そばにいたタイ人(*)も、日本人はもちろん、眼光鋭いインド人までもがすっかり黙ってしまい、固唾を呑んでみていた。まるで、二人の周囲には「近寄るな、入るべからず」みたいな空間が心なしか生じていたような・・・。

ところがLさん、後に苦笑しながら曰く、
「あの女性、ジャカルタから来たって言うんだけど、ここ(バンコク)から中国へ戻る切符をもっていなかったんだ。それでビザを取ろうとしているので、切符なしではビザは取れないと係から説明されていた。それでもまだ、とにかくビザをと主張している。そこで僕が『ビザをとるには帰りの切符がないと無理なので、ビザがほしいならまずは帰りの切符を入手することだ』と説明したんだ。そうしたらやっとわかったのか、旅行代理店に行くと言っていたよ。どこの出身か知らないが、中国の北東部かな、ま、とにかく説得するには骨が折れたよ」

せ、説得していたとはね(汗)。てっきり説得されているか叱られていたのかとしかみえなかった。
中国人同士のやりとりって、どうしてかくも激しいのだろう(笑)。


*
ビザ申請受付係のおじさん(タイ人)に、あーた、黙ってみている場合ではないでしょ、とつっこみたくもなってしまった。


ラオスの食べ物あれこれ

う~き(雨季)よこい、はーやくこい、と叫びたくなる暑さが続く。

普段からそうだが、旅行中の私はとくによく食べる。だから日頃はとりたてて興味のうすい食に対しても、旅先では関心のボルテージが俄然、急上昇することも。概して、東南アジアでは食に困る光景をあまりみない。どんな僻地の農村に行っても、食べ物だけは豊富にある。たわわと実りその辺にころがっている農作物にあたかも象徴されるように、豊かさは食にあり。その上、ラマダンがない国なので、時を選ばずいつでも食べられる環境は、食い食い虫にとっては実に心地よい。そこで、今日は食べ物の話をしてみます。

マンゴー以外にもおいしい食べ物は多いが、私のお気に入りはコレ。
ラオス米麺
朝食に食べるライスヌードル(米麺)だ。数種類の香草とピーナツ風味のペーストが何とも食欲をそそる。しかも、スープの味がさっぱりしているので、替え玉追加でないけれど必ずお替りをしてしまう。不思議なのは、このメニューにもれなくコーヒーがついてくること。それはいいとして、基本的に出されたものは何でも食べることにしていた。それもある時まで。その時とは、今回でいえば、皮をむいたら中から大量の虫がはい出てきた果物のマンゴスチンをみてしまった時・・・。しばらく何が起きたかわからなかった。

次にあげるとしたらコレ。
のり convert_20090531002939
川のりに胡麻をまぶして揚げたもの、スパイスの効いた味噌風調味料をつけて食べる。ビールのおつまみとしても最高で、ラオス人はもちろんのこと日本人や韓国人にはたまらないが、海草を食べる習慣がない国から来た人はどうにもこうにも苦手なようだ(何ともったいないことであるよ~)。地元のレストランだけでなく、市場や小売店でも買うことができる。いろいろな商品が出回っているが、質のよしあしが如実に出るらしい。やはり私にはわからないので、以前はラオス人の仲間に選んでもらった。今はシーズンでないので高く、買うのは控えた。

また、やはりお米の国だけあり(*)、米を使った料理はいろいろある。筆頭はスティッキーライス。
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これはもち米なので腹持ちがよく、ラオスではオフィスで働く人も農家の人も、お昼のお弁当として副菜を添えて必ずもっていくもの。食べ方としては指で丸めて食べるのが普通で、お箸などまず使わない。日本のおにぎりのような感覚のようだ。かめばかむほど味が出てくる。一度これを食べると普通のごはんをやめる人も。かく言う私もそのひとり。

ラオスの食べ物は、ちょっと辛いけれど慣れればクセになるし、おいしいものが多い。それでもこれだけはちょっと、と個人的に思うのはデザート類。もともと甘党でないこともあるが、街中でこの色をみた時は記録に残すべく、カメラカメラ~
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甘党、とくにおしるこやあんみつ好きにとっては、たまらなくおいしいそうである。私は羊羹など食べられないので、チャレンジは次回以降に。

*
一方、パンはちょっと違う。基本はフランスパンだが、やや中途半端な味なのだ。同じフランスの植民地だったベトナム(ハノイ)では、街中のどこでも、どんな外れた地域で買っても等しくおいしかったのがこのフランスパンだった。日本のフランスパンなど、比較にならないほどの歯ごたえと香ばしさなのだ。


つもり

ところで、ラオスでの食の楽しみはフルーツである。5月はマンゴーの時期で今がまさに旬。それにしてもコクのある、おいしいマンゴーだこと!(吹き出物でもできそうな濃密な味・笑)。確かに昨年冬に来た時はマンゴーがなかった。この時期、例年だと雨季が始まっているが、雨季開始時に合わせたかのようにマンゴーが収穫できることから、初期の雨季をマンゴーシャワーと呼ぶらしい。今年は遅れていて雨季はまだ始まっていない。でもマンゴーは十分おいしい。ただしそのマンゴーもそろそろ終りで、パイナップルが出回りはじめ、7月までパイナップルの季節だそうだ。そこで今は、両方を味わえるお得感がある。ほかにもいろいろあるけれど、この二つは本当に柔らかくておいしい。

今日の午後以降、ネットの接続が一時的によくなるが、停電の回数も増える。今日だけで3回目。まだまだ、きそうである・・・。備えあれば憂いなしではないけれど(汗)、つもりがあるだけでも心理的にはマシというもの?

逆に、つもりが全然なかったのが暑さ。てっきり雨季に入っていると見込んでいたのだが、雨季は3週間の遅れだ。今日も、これ以上ないくらいの暑さ真っ只中にフィールドワークに行き、フィールドから戻ってやれやれと顔を洗っているときに、折悪しく電気が切れる。ふっ、それでも大丈夫よ、と自らに言い聞かせ、得意げに(?)直前まで冷やしておいたコーラを取り出す。それを飲み干し、しばらく涼んだ気になる。それにしてもこの暑いこと!カラッとしているけれど、地元の人の体感温度によれば35度だそうだ。

そんな暑さにもめげず、かくして2日目も無事終了の運び。



Day1


昨晩は何とか到着しただけで、軽い打ち合わせの後、思いっきり何もせずに寝てしまった。そこで今日は朝4時に起きて、プレゼンファイル作成に取り組む。何とか形にしようと進めて、そろそろ調子も乗ってきたな~、というところへ突如の停電。そうだ、これがあったのだ、この国は(忘れていた)・・・。そこで、暗闇の中を手探りで、持ってきたはずのLED懐中電灯を取り出した。これは軽い上に手動でチャージできるという優れもの。そこまではよかったが、何せ普通の懐中電灯とはちょっとつくりが違うので、灯りが必要。停電中はPCの画面しか光がとれないので、その前へもっていき、懐中電灯のスイッチの場所を探してオン。まったく何やっているんだか・・・。日頃忘れかけていた電気の有難みを感じてしまう。

それにしても今回は、何かとピンチが続く。やはり準備は余裕をもって、前々日までに終わらせておくべきだと肝に銘じる。そして、2時間ほどして電気も復旧。この間、シコシコとラップトップに向かって仕事をしていたが、割と捗った。

朝8時半より会議が始まる。とほどなく、会議中に急に場を乱しかける(?)音楽が。しかも何とも陽気で物悲しさの漂う、中国風ともタイ風ともとれる音楽がどこからともなく流れ続けるではないか(*1)。だれかの携帯かと思ったが、その場にいただれもが反応しない。そこで私も敢えてムシ。すると参加者の一人が、発信源を探して隣室に向かい、音は消えていく。ホテルの従業員の携帯だったようだ。ありがとう、参加型会議へのご協力を!あれやこれやで、何とか1日目は無事終了。

それにしても、通信状況が前回に比べて妙に悪く、繋がった瞬間にアップしてみるという
運任せの状況。おそらく写真などはまた帰国後にアップします。

*1
ラオスの音楽や芸能関係では、タイ発の情報が多いらしい。毎日テレビでもタイのニュースや
音楽が絶えず流れている。アジアに多いVCDというのも、タイからのものが多い。


慌しい出発

金曜朝、パスポートの問題をクリアしてホッとしたのも束の間、電話が鳴る。いやな予感。果たして、「予定していたフライトが急遽キャンセルになりました」という連絡。明朝の出発なんですけど~(汗)。

行き先はラオス。ハノイ経由でラオスに行った3回のうち、ハノイからのフライト欠航はこれで2度目。しかも1回目は当日朝の決定だった(ので前日連絡の今回はまだマシ、などと言っている場合でもない)。しかしその時は無理して、香港経由で何とかしのいだ。2回目は何も問題なかった。そしてまたもや今回の欠航。そこで、前回のように香港経由の可能性を打診したところ、それも飛ばないので日曜日に振り返るのはどうか、到着は日曜夜8時と言われる。日曜朝から始まる会議の主催者として、すぐに飛びつけるオプションではない。そこで、極力、土曜夜までにつく便を探してもらう。プランBは、ハノイに1泊して、日曜午前中に着くという便。それで決まりかけたのだが、おそ昼に行っている間に、その欠航も決まったようだった。金曜の午後2時すぎに提示されたのは、同日夜9時の羽田発で関空に飛び、そこからバンコク経由でラオスに行くという話。荷造りもしていないので、そもそも家に戻らなければ話にならない。

ザッと計算すると、夕方6時前に家を出ればいいからすぐに帰れば何とかなりそうではある。そこで速やかに、残りの書類をまとめてプリント、コピーを済ませながら、一方で、残りの手配等をすませる(悲しいことに、帰路にハノイで親友に会う計画は頓挫してしまった)。

おそらく海外へ行くのに、関空を使うのは初めてだと思う。思ったより広いし、アジアの空港をイメージさせる広さだ。深夜発という時間帯もあってか、バンコクまでの便は乗客も50人ほどで、機内はゆったりしていた。足を延ばして眠れるのもうれしい。

関空は夜9時過ぎ、飲食店でも免税店でも書店でもお店というお店は一様に閉まっていたのだが、バンコクでは朝4時なのに、かなりのお店が開いている。この時間にだれが買い物をするのかと思うのだが、とくに免税店などは煌煌と明るい。これもアジアのハブ空港ゆえか。バンコクでの待ち時間が7時間ほどなので、ターミナルホテルを探す。みつけたのが、シャワー、ベッド、朝食付、4時間で80ドル。確かシンガポールでは、60ドル代だったと思うが、同僚に言わせればソウルも80ドルで、ソウルにしては安いと思ったそうだ。考えたこともないけれど、成田ではいくらなのだろうか。

成田からバンコク経由で行くと、バンコクに1泊しなければならない。次回は1泊してでも。フライトキャンセルのない(はずの)バンコクから行くぞ、と決意。


パスポート

それは火曜のことだった。パスポートの残存期間が6ヶ月を切っていることに気づいたのが。そして、俄かに慌て始めたのも。ここでいつもだと、「ま、何とかなるか」と思ってしまうのだが、今回はちょっと違って、「ま、何とかなるかも、ね?」モードに。気づくのも遅かったが、慌てモードにギアが入るのもやや遅かった。

これには背景がある(一応)。
今まで、ビザ申請で何かと苦労してきた人々を脇でみてきた。それだけに、日本国民であるがゆえの「ビザ不要」の有難さをどれだけ味わってきたことか。ビザは申請したとしても必ずしも通るわけではない(日本人だとあまりない)。それどころか、国籍によってはいたずらに時間だけがかかり、予定をキャンセルせざるを得なくなることだって、ままあるのだ。それに比べれば、日本国籍の恩恵にはただ感謝あるのみ。

が今回は、それが裏目に出た。ビザ不要を確認するや否や、パスポートを取り出すこともなく。しかも何せ久しぶりの海外。パスポートが今年9月までだったことは、頭の片隅にあったはずだが・・・いや、すっかり忘れていたようだ。

調べると、パスポートの更新は最低6日かかるという。出発は土曜日。となると、まずムリ?
まあここで慌て続けていても仕方がないので、まずはいつもお世話になっている旅行会社に電話して調べてもらう。ビザなしで行こうとしていたので、ビザを取ってしまえばOKかと、楽観視していたのだ。ところが、
「パスポートの残存期間が6ヶ月以上なら、ビザなしでOKですよ~」
「いや、その残存期間が足りないんです~。だからビザが必要になったんです」
「それではとにかくパスポートを更新してもらうしかありません。今からビザを取るにしても、パスポートの残存期間が6ヶ月以上あることが必要なんです」
「到着先の空港で入手することはできますか」(←難しいと思いつつ)
「交渉する余地はありますが、お約束はできません」(*1)
万事休す?

今まで数々の「無理」を通してきたけれど(*2)、さすがに今回は本当に無理かと思えた一瞬。それでもあきらめるにはまだ早い。あれやこれやと調べて、出張なので業務命令ということで何とかなるかもしれないという話を小耳にはさむ。ひとすじの光明。そこですぐに必要な書類を整え、参考資料まで揃え、パスポートを取りに自宅に戻り、そのまま都庁へダッシュ 気づくのが遅かった割には、私はこういう動きだけは速いのだ。

そして金曜朝、無事にパスポートを入手した次第。やれやれ、これで10年は安心である。今回は、
どれほど都庁の担当の方が頼もしくかつ輝いて  みえたことか。


*1
と思ったが、空港に着いたら、Visa upon arrivalの表示があるではないか。欧米の観光客が列を成していた。そういえば前もみたが、どうもこういうことは記憶に残らないようだ。

*2
これは見解の相違というもので、だいたい私が何か交渉ごとを始めると、みる人によって見方が
分かれるのが常。
 家族に言わせれば、「だいたい無理を通そうとする。時にはとんでもない無理も」
 M氏曰く、世の中には通すべき無理があり、Sainahのしていることは「必要な無理」(←そう言っていただき、ありがとうございます!)
 本人の意識としては、ハナから無理との自覚ゼロで、無理というより「とりあえずやってみよう」程度なのが問題か(←いつからこうなってしまったのか・・・)



オリジナリティを問う姿勢

今日の日経新聞で、緑色半導体レーザーの開発に取り組んでいる中村修二教授へのインタビュー記事が掲載されていた。中村氏といえば青色ダイオード(LED)、青色ダイオードといえば日亜化学相手の中村裁判が想起される。

この一連の裁判は、知的財産権の認知度の高まりとともに世の注目を浴びたうえで、議論百出だったことは記憶に新しい。日本の会社文化、特許申請や特許制度の問題、職務発明と自由発明及び研究と実用化の線引きなど、議論も争点も広範囲に渡っていた。何より、今後の日本の研究者だけでない、日本の科学技術の発展と将来性を占うような位置づけにあった裁判だった。それだけに、理系の社会人や研究者ならずとも、その動向を固唾を呑んで注目していたに違いない。

これに対する私のスタンスは一貫して、ひとことで言えば、「オリジナリティはだれに/どこにあるのか」となる。「社会的インパクトが大きかった発明なり製品化なり仕事(ここでは研究)の場合はとくに、そのオリジナリティはいったい誰(のアイディアや貢献)に帰属するかという一点がまず最初に問われるべきで、その真価を会社を含む社会は潔く認めるべし」というものだ。これに対して、「貢献度は決して数値化して測れるものではない。グレーゾーンもある」との主張が、当事者からも外野からも出てきたのだろう(だから裁判になった)。しかし、果たして本当にそうだろうか。どうも私には詭弁としか思えない。
科学技術の発展には、ときにパイオニアやブレークスルーによる強力な推進力を得て初めて動き出す分野や時代が、確かに存在する。細分化した専門分野の一領域が、想像もしない形で走り出すうねりと勢いがブレークスルーなのだ。青色LEDの発明はまさにその好例だったと思うが、私にとってはそのことを提示し、再認識する機会にもなった裁判だった。

今日の自然科学では、物理ひとつとってもあるいは生命科学の分野でも、専門領域の細分化、高度化が進んできた。それは、科学に携わる人にとっても専門外の分野が増えることを意味する。それでも不思議なもので、科学という共通語をもってすれば、たとえ専門外の分野でも一目みて、あるいは読んで、聞いただけで、詳しいことはわからないがどうもすごい研究らしい、と直感的に予感できる仕事がある。それがサイエンスの特徴であり醍醐味でもあるのだが、そういう仕事が規模の大小を問わず、ときどきポンと出てくる。そういう場合は、何だかうれしくなって、知らない分野だけになおさら勝手に、一人サポーターになってしまうのだ。

さらに、知的所有権や特許の問題を論じるのはいいが、日本の場合、特許制度が追いついていなかったり特許をとるまで時間がかかるだけではない。科学への貢献度に対する公正な評価や正義を求める動きに対して、どうも社会の反応が鈍い感を受ける。
「いいものはいい。すごいものは確かにすごい」
そのように率直かつ素直に認めればいいものを、その土壌が日本社会にどうも根付きにくいように映るのはなぜだろうか。

日本人には独創性が十分あるのに、なぜか、これを認めたがらない同胞が少なからずいる。不思議なことではあるが、ひとまずそれは脇に置いておこう。独創性との関連で思い出したことをここで引用する。
「日本人というのは、ほんとうにすごい独創性、美的感受性をもっているんですね。欧米の国々は日本が猿真似国家とか言って自信を失わせようとする。ライバルに対しては、戦略上、自信を失わせるのが一番効果的ですから。」 小川洋子・藤原正彦 『世にも美しい数学入門』 (83頁)
言い得て妙である。



豆腐

青森の思い出をもうひとつ。
津軽半島は、幼い私にはとてつもなく遠いところに思えた。それも、ただ遠かっただけではない。いつも思い出すのは、いかんせん雪深い地だったということ。とくに、一歩ずつ歩を進めるたびに、「ずぼっずぼっ」という音のする雪に覆われた地面は忘れられない。それほど、いつも雪に閉ざされた世界だったイメージが強かった。それにしても、海でもなくねぶた祭りでもなく、なぜこんなことを覚えているのだろうか。

私はときどき、おつかいで豆腐を買いに行かされた(*1)。スーパーなどない地域である。今ではほとんどみられなくなった豆腐屋さんが、街中にあったのだ。家からボールをもたされてお店に行き、豆腐を1丁買えば豆腐やがんもどきのおまけが少しついてきた。これが子どもだからか、地方のサービスだったのかは知らないが。

ある日のこと。子どもの足で5分ほどのお店に行った帰り道。ずぼっずぼっ、一歩ずつ雪を踏みしめるように普通に歩いていたはずが、するりん!手に抱えていたボールが踊った。あっ、と思う間もなく、白い豆腐は雪の中に沈んでいった。豆腐や~い、と探そうにも探せない。同じ色だし何よりあの硬さ・・・。健気な私は豆腐を探してみた後、すぐに観念して親を呼びに行き、本当にココで落としたのだと指し示したのだが、残っていたのは豆腐の残骸らしきものと思しき通り道(?)のみだった。

最近は、かつれの豪雪地域でも降雪量が減っていると聞く。地球温暖化の影響など、陰も形もない時代だった。

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当時の田舎ゆえ、悪い人もいないと思ったのだろうが、学齢前の子どもに不慣れな土地でひとり買い物にいかせるとは、やや大胆な母ではある。

雲南の歌姫

前回からやや時間が経ってしまいましたが、津軽に関連した話です(一応…)。

あるワークショップ(学会の分科会のような集まり)に参加したときのこと。ところは中国・雲南省。3~4日間のワークショップで中日にフィールドトリップをはさむ、典型的な構成だった。フィールドトリップの行き先は少数民族の地域周辺にある保全林。主催者のはからいで、ワークショップ参加者に中国の一少数民族であるイー族出身の女性が、スペシャルゲストとして呼ばれていた。ワークショップの公用語だった英語は解さず、中国語(しかも地域の方言と思しきことば)しか話さない彼女だが、サービス精神の塊のような人で、コミュニケーションをとりたい気持ちだけは前面に出ていた。だからか、思いっきり溶け込んでいた、というより最初から最後まで目立っていた。今でも民族衣装に身を包んだ、彼女の姿と表情が鮮やかに目に浮かぶ。

移動のバスには、15ヶ国以上の人々がいるのだ。それなりに話は進むが、それもある程度までのこと。バス3台に分かれた主催者がバスガイドを兼ねるわけでもない(この辺はひとによるようだ)ので、求心力はそれほどない。何より中日となると疲れも出てくるし、何となくみんな退屈していた。そんな空気が漂っていた車中で、突如、件のイー族の女性がエンターテイナーを買って出た。
「いいですか、みなさん。ここはひとつ歌いましょう。まずは私から歌いますからね!」
サービス精神を発揮して、少数民族の社会に伝わる歌とやらを何曲が続けて披露してくれる。そもそも最初から歌いたかったのだろうけれど、その勢いとはちきれんばかりの笑顔に、みな自然と引き込まれていき、手拍子が始まる。どこの国にも、ノリのよすぎる人もいればシャイな人もいる。でも音楽を楽しむ気持ちは洋の東西を問わず共通のようだ。

そうこうするうちに、彼女だけにマイクを握らせてはならじとばかりに、ほかの人たちが参入、車中はカラオケさながらの各国の歌自慢大会となる。とくに、東南アジア、インドやラテンの人はノリがいい。ひとりが歌うと呼応して、また別の人が歌い始める。どこからともなく司会者が現れ、国別対抗歌合戦ではないが、「はい、つぎ~インドネシア~」「はい、つぎ~フィリピン~」「はい、つぎ~オーストラリア~」と仕切り始めている。そんな~、私に来たらどうしよう、と思っていたら、やっぱり「はい、つぎ~ジャパーン~」と来た(!)。

もともと歌とはあまりに無縁であり続けた私のこと。マイクを前に一瞬、頭が真っ白になる。子ども自分の歌の歌詞しか思い出せない。しかし、こんな時、日本民族の誇りにかけても「森のクマさん」なんて歌えない。かといってほかの歌も思い出せず・・・。そこでやむなく、「津軽海峡冬景色」を歌ってしまった(!)。民族の誇りをかけるにしては情けない歌唱力だったが、まあ何とか日本らしく演歌で珍しい音調のせいか興味深々の眼差しを感じた(はず)なので、まあよしとしよう。でも、歌の意味するところはゼッタイに通じなかったと思う(爆)。そもそもどうして中国の秋に歌えたのか。思い出すだけでも恥ずかしい。

なにせ、こういう時はノリがいいのが一番、それとわかりやすい曲を歌うことだ。それも、リズムに乗れば相手が口真似したくなるような単純な歌がいい。できるだけリズミカルで簡単な歌だとさらにいい。インドネシアやオーストラリアの人は、簡単な歌で聴衆を巻き込むのがとてもうまかった。こういう時のために、効果的な持ち歌を用意しておくべし―これが教訓である。

津軽海峡冬景色

昨日、作曲家の三木たかしさんの訃報が流れた。芸能関係に疎い私でも知っていた演歌、「津軽海峡冬景色」を作曲された方だという。実は、この歌にはちょっとした思い入れがあるので、今日はそのことについて書いてみたい。

小学校に入る前のことだったと思う。父の仕事の関係で、青森に住みかけたことがあった。子どもにしてみれば「青森ってどこ?」という程度の認識である。それも、青森市や弘前市ではない。よくよく聞けば津軽半島の北端、竜飛岬に程近い三厩(みんまや)という村で、海の向こうには北海道がみえた。その海こそが津軽海峡だったのだ。

しかしそこでの生活を始めるや否や、両親は言葉の壁にぶつかったらしい。まるで外国に来たみたいだ、とふと漏らした母の一言もあり、結局、父の単身赴任が始まった(*1)。その後、母に連れられては三厩に向かう行程を、何回繰り返したことか。当時はまだ新幹線もなく、上野駅から夜行の寝台列車に乗り、一晩ゆられていく旅だった。乗車前の夜8時半ごろ、上野駅で決まってお蕎麦を食べ(させられ)、車内の二段ベッドの上段を陣取る。簡素なベッドの枕元には、缶ジュースを置くのにお誂えの形をした、とびら付の窓があった。そこで自分の席(ベッド)について最初にやることは、窓辺にジュース(これもなぜか決まってファンタグレープ *2)を置くこと。ほどなくして、列車がゴトンゴトンと動き出す。ここまで来ると眠るしかない。しかも翌朝は早い。揺れに身を任せているうちに、乗客の低い話し声も自然と遠くなる。そして早朝に到着の青森駅に降りると、「青森って本当に寒いのね~」と感じるのが常だった(*3)。

だからであろう。私にはあの歌の、とくに歌詞のひとつひとつが無性に理解できる、実感として理解できてしまうのだ。
・ 上野発の夜行列車と駅の光景も
・ 北へ帰る無口な人の群れもその様子も
・ 青森駅の朝の様子も
・ 雪深い津軽の寒さも
・ こごえそうなかもめも
・ 海鳴りの音まで、聞こえてきそうである

こんな歌は、そうあるものではない。

おそらく「津軽海峡冬景色」こそが、私が単に知っているだけでなく、この先も、そらで歌える(一応?)唯一無二の歌であり続けるに違いない。



*1 東北に縁もゆかりもなく、幼い子ども達を抱えた母にとって、言葉がまったく通じない=外国、と思えたことは想像に難くない。しかし長じて、最初にこれを聞いた時、何と情けないと思ってしまった。ただ母の名誉のために言っておくと、ほかにも理由はあったらしい。いずれにせよ、これを機に、父はその後も単身赴任を続けることになるのだが、数年毎に日本各地を回れるのであれば(ましておや東京に戻ることもあるわけで)、ずっと父についていけばよかったと、私はよく思ったものだ。何より、言葉の通じないとしたら、それは父とて同じである。しかも仕事をする身の方が、言葉が通じないハンディははるかに大きいと思うのだが。こう書けば、「いいえ、生活していくこともタイヘンなのよ!」という母の声が飛んできそう、ではある。ちなみにそのときの母は、まだ外国に行ったことがなかったはずだ。

*2
あの時間に上野駅で食べるものと言えば、ほとんどお蕎麦(またはうどん)しかなかった。お蕎麦といいファンタグレープといい、それしかオプションがなかったところに何とも時代性を感じる。

*3
今思えば、寒かったのは青森だからか、窓辺に一晩置いた結果、冷えきったジュースを一気に飲み干したからかは、判断の難しいところ。両方ということにしておこう。



ハンセン病と社会

夏日和だった先週末、遠路はるばる出かけた。池袋から電車とバスを乗り継ぐこと1時間弱。乗り慣れない路線ゆえ(ほとんど初めて)、急行やら快速やら種類が妙に多く、いったいどれに乗れば一番早く着くのかもわからない。行き先は国立ハンセン病資料館。東村山市清瀬にある多磨全生園の一角に位置している。あまりにきれいでモダンな建物だった。トイレの伝統が感知式になっているのも、フランスのla minuterieではないか。聞けば、2年前にリニューアルしたらしい。

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ハンセン病はらい菌に感染することで起こる病気(*1)。手足の末梢神経が麻痺し、皮膚に変化が起こるだけでなく、手足や顔の一部がただれて後遺症が残ることも多かった。病気が進むと失明することもあったが、何せ原因不明の病気ゆえ、恐ろしい遺伝病として迷信が社会に広まっていった。ある時まで、らいと聞けばなぜかインドがすぐに思い起こされたが、実は同様の状況は日本でも、江戸・明治時代には起きていたのだ。その後、明治政府により患者の強制隔離を目的に作られた「らい予防法」の下に、患者はひとたび発病すると、療養所へ送り込まることとなった。たとえ自宅療養していても警察や市町村の職員に見つけられ、療養所入所を余儀なくされた。しかも患者の多くは、家族への迷惑を考え入所以降、ずっと偽名を名乗り続ける人が多かったという。

入所当初、いつか病気が治ったら、との淡い期待を抱いていた患者だが、やがてその日は永遠に来ないことを悟るようになり、希望を持たないことを学ぶようになった。また療養所は、交通の便の悪い山奥や離島にあることが多く、療養所に入ることはそのまま、そこで一生を送ることを示唆していた。そもそも、治癒しなければ島や療養所からは出られない、たとえ治癒しても家族にも会えないどころか故郷にも戻れない患者にとって、療養所で生きるしか道はなかったのだ。だから、この資料館の示す証は、そのまま患者の受けた社会的苦しみとともに、生を求め続けた精神的葛藤の歴史でもある。いくつか挙げてみよう。

 他人のことだから「業病」などといえるのだ。希望はあるのかと聞く者がいたら、とんだ道化者と言うしか
 ない。どんななぐさめもへつらいや皮肉の意味しかもたなかった。(資料館の展示資料、『無菌地帯』より)


 今はだから私には夢がない。自分の生きがいのある人生がほしい。生きているということを自分自身で
 味わってみたい。(資料館の展示資料より)


これは、10代の少女の言葉だ。まだ青春の真っ盛りに発病、バレリーナになる夢を抱いていた女学生の、あきらめに近い悲痛な叫びは、胸が痛む。実際、療養所に学校ができたほど患者の中には子どもも少なからず送り込まれてきたという。

 生き抜いた証
 患者たちは、治療に微かな望みを託しながらも、軽快と悪化を繰り返す経過に翻弄されるうち、多くは
 もとの健康をあきらめてしまいます。しかし、彼らはいかに苦しい状況の中でも生きることをあきらめず、
 様々な活動の中に自分の位置づけをもとめてゆきました。それが生き抜いた証として、療養所の
 生活改善や文化活動、あるいは社会的自立への取組みへの結実していきました。(資料館の展示資料より)



ときが経つにつれ、全国の療養所で閉ざされた環境におかれた患者を中心に、文化活動が盛んになっていった。このひとつが音楽団結成だった。音楽団を結成し、活動を続けることで、生きがいを見出した患者の一人はこう語る。
「あの頃は、みんな心が枯れていた」
ひとは、どんな境遇におかれても、生き抜いた証、生きがいを求めるのだろう。

ここで余談になるが、「生きがい」という言葉について私が最初に読んだのは、神谷美恵子さんの著書(*2)だったことに触れておきたい。神谷さんは学生時代に多磨全生園に訪れ、らい医学への貢献を目指すようになる。紆余曲折を経て後年、精神科医として岡山の長島愛生園に勤務する一方、大学で教鞭をとっていたようだ。私は彼女の本を学生時代に初めて手にとって以来、何度、紐解いたか知れない。読む度にいろいろな発見があったが、彼女の著書の根底に一貫して流れていたのは、らい患者への思いと共感、そして生きがいへの問いであった。おそらくこの問いは、結核にかかり死を意識して過ごしたご自身の、若かりし日々にも起因していたというくだりが、随所に書かれていた。

閑話休題。

社会の偏見や差別を助長したといわれているらい予防法だが、廃止されたのは1996年のことだった。私はなぜかこのニュース報道を覚えている。というのも、らい予防法がまだ現存していたことに驚いた、鮮明な記憶があるからだ。明治以来のらい予防法が平成になってようやく廃止され、患者の強制隔離もなくなり、社会との接点も出てきた。それでも、患者が「取り戻せないもの」は何だったか―これを挙げておこう。

取り戻せないもの (資料館の展示資料より)
1. 社会との共生
2. 家族との絆
3. 人生の選択肢
4. 入所前の生活


ところで、ハンセン病資料館を見終えて、あることを思い出した。摘発されたかのごとく療養所に入所させられた患者が次にとった行動は、名前を変える、身を隠すといった家族へかかる迷惑を考えてのことだった、という事実に関連してである。
私は個人主義のみを至上とするものでは決してない。しかし、日本社会では、個人がもっと尊重されてもいいのではないかと思えたことは一再ではない。例えば、ある個人が、たとえ賞をもらってもあるいは犯罪をおかしても、日本では等しく、それもかなりの確率でその家族が引き合いに出される。この点が私には、昔からどうしても理解できないことのひとつである。場合によっては、家族や周囲の話を入れた方が感動的だったり効果的になるのかもしれないが、必ずしもそうではない場合も多い。ときにプライバシーや節度など皆無であるかのようにマスコミや社会が追いかける姿勢も、そしてそれを許してしまう社会も、決して健全とはいえない。第一、私に言わせればそこまでする必要があるのかと思うケースがほとんどだ。家族がどうであれ、本質的には、その人の行動の意味づけ(ここでいえば賞の価値や罪の重み)が変わるわけではない。その意味では、日本にもっと個の考えや個性の尊重が根付いてもいい。飛躍を承知で言えば、子どもや若い世代にだけ「個」や「個性」を求めるのもフェアではない気がする。


*1 ハンセン病
かつては「らい病」と呼ばれていたが、1873年にらい菌を発見したノルウェーの医師・ハンセン氏の名前をとって現在は、ハンセン病と呼ばれている。らい菌は組織培養ができないほど弱い。ここでは流れによって、敢えてらい病と書いた箇所もある。

*2 学生時代に初めて買い求めた著作集で、何とも懐かしい。久しぶりにまた、読みたくなった。

この国どこ?


 今日、インフルエンザのニュース関連でみた中国語のニュースサイトで目に入るともなく見ていると、中国語表記の国名があった。最初は興味深くぼ~っと眺めていたものの、国旗どころか大陸名すら思い浮かばない国ばかり。ずらっと並べるとこんな感じ(*)。
 みまさま、このうちのいくつを言い当てることができるでしょうか?

 墨西哥
 美国  
 加拿大
 西班牙 
 英国  
 徳国 
 新西
 以色列 
 法国 
 意大利  
 萨尔瓦多
 韩国
 奥地利 
 荷
 瑞士 
 丹麦  
 哥斯达黎加 
 中国香港
 爱尔兰
 哥伦比亚 
 葡萄牙 
 瑞典 
 危地马拉 
 波兰

 何となくわかる国も多少あるにはあったが、中には謎めいた響きや印象を与えるものもあり、ますます興味がそそられた。例えば、最後の方の「危地马拉」なんて(いったいどこなの~??)、いかにも危なかしい土地だと言わんばかりの文字ではないか。世が世なら(漢字がグローバル言語として堂々と通用する時代になった、とか?)、外交ルートでクレームの一つや二つはついたとしても不思議ではない。

 さて、正解は?

 墨西哥 ・・・ メキシコ
 美国   ・・・ アメリカ(?!)
 加拿大 ・・・ カナダ
 西班牙 ・・・ スペイン
 英国 ・・・ (そのまま)
 徳国 ・・・ ドイツ
 新西兰 ・・・ ニュージーランド
 以色列 ・・・ イスラエル
 法国 ・・・ フランス
 意大利 ・・・ イタリア
 萨尔瓦多 ・・・ エルサルバドル
 韩国 ・・・ 韓国(割とそのまま)
 奥地利 ・・・ オーストリア
 荷兰 ・・・ オランダ
 瑞士 ・・・ スイス
 丹麦 ・・・ デンマーク
 哥斯达黎加 ・・・ コスタリカ
 中国香港 ・・・ (ほぼそのまま、しかし中国との但し書き)
 爱尔兰・・・ アイルランド
 哥伦比亚 ・・・ コロンビア
 葡萄牙 ・・・ ポルトガル
 瑞典 ・・・ スウェーデン
 危地马拉 ・・・ グアテマラ
 波兰 ・・・ ポーランド

 これらの漢字は、いったい意味に由来しているのか読みに由来しているのかがわからないが、ドイツをみると意味ともとれ、イタリアなどみると読みかととれる。ニュージーランドなぞ、皆目わからない。 面白かったのは、ドイツとアメリカ。ドイツはやはり、徳のある国なのね。美国ってどこなの~と思ったけれど、アメリカですか。確かにアメリカの自然は美しいですね。これに対して欧州諸国はクレーム付けそう。とくにフランスあたり、美国=フランスで、法国=アメリカ、とか言ったりして。奥地利も一瞬、アマゾン(のワケないのだが ^^:)かと思ったら、オーストリアだそうで(汗)、読みからすればそうかもしれない。荷兰も、なぜか笑いそうになりながらも、それなりに納得。

 漢字だけでなく、ひらがなと片仮名のある国に生まれた幸せを、なぜか感じてしまったわたくしです(^^;)。


 * 常用漢字ばかりではいので、文字化けしていないといいのですが、もししていれば
   お知らせいただければ幸いです。






GW終了

 今年のGWはどこにも行かないことに決めていたので、たまっていた家のことが捗ってよかった。どこにも行かないのは別段珍しいことではない。 ある時期まで、我が家のほぼ慣行であった。

  とはいえ、慣行を破ったこともある。まず2年前、中国に行った時のこと。仕事では何度かあったのだが、純然たる観光は初めてだった。言葉がわからないから、家族でツアーに参加した。実はこれが生まれて初めてのツアー旅行で、果たして結構楽しかった。しかも敢えて日本のGWをはずして(少し後ろに)参加したツアーだったので、参加人数も全部で7人と、ちょうどいいサイズだったのだ。ところが、到着して初めて知ったことに、中国のGW真っただ中にぶつかっていたとは・・・。そのためかどうか、万里の長城はすごい人、ひと、ヒト・・・。GWの京都なんてもんじゃなかった。中国のGWにわざわざ日本から乗り込んでいったなんて、シャレにもならなかったと話していたことを覚えている。
 そしてその翌年、法事を兼ねて急遽、関西に。それもまた京都を中心に滞在。旧交を温めたものの、どうしてこの時期にここにいるの?(答え 法事だから)というささやかな疑問は、滞在中ずっとぬぐえないでいた。

 また今年からしばらく、どこにもいかないGWが続きそうである。








GW初日

GWが始まった。
私の休みは今日からです。う、うれしい~。例年4月といえば、少なくとも仕事の上では助走期間
のイメージがあったのだが、今年はなにせ違った。この1ヶ月間、何とまぁ、あれやこれやと続いた
ことか。大波来たりて小波去る、の繰り返し・・・。

その様子をまた、飛行機なりシャトルなりに例えてみれば、
離陸に備えた準備を進めていたかと思えば、急発進せざるを得なくなりやむなく離陸態勢に入った
ものの、途中で燃料不足に気づいて寄港地に緊急着陸(足踏み状態?)。何とか燃料補給して
全速力で走り出し、ともあれ打ち上げ成功して軌道に乗った、みたい・・・。

とまあ、そんな描写が目に浮かぶ4月でした。それでも最後には、無事着陸や帰還できるか
どうかはまだわかりません。いずれ答がでるでしょう。

この1ヶ月で私の学んだこと―必要以上にエネルギーを要する状況も、見方を変えて一種の
ゲームと考えれば意外と楽しい(?!)、ということ。一見とてつもないようにみえることでも、
意を決して取りかかってみれば、対処しうる程度まで分解していくコツも自ずとわかってくるし、
そのうち不思議と智恵も湧いてくるというもの。

で、何コレ?という我が家の状況に気づいたのは昨晩のこと  。ほとんど放置状態だった…。
ということで、GW中は静かに家の諸々をすることになりそうです。







プロフィール

Sainah

Author:Sainah
仕事&興味:途上国と開発援助 [セクター] 農業・自然環境・生態系
少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき

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