シリアの思い出(12)


オリーブの若木が赤土に根付こうとしている一枚の写真。広大な赤い大地の向こうに広がる青い空。

アレッポでとったこの写真がお気に入りで、長いことデスクトップの背景にもしていた。この写真を見るたびに、あのシリア行きで感じたこと、考えたことを思い出し、どこか清々しい気持ちになる。環境・自然資源の分野で、研究の知見を国際協力の政策や実務に活用する、橋渡しの仕事をしたいと考えるようになった原点が、あのアレッポでの会議にあったと思えてくる。

ICARDA_olive.jpg

今回のシリア思い出シリーズは、2006年11月にシリアのアレッポを訪れた時の記録を基にまとめてみたもの。プロジェクト会議の開催地はアレッポだったが、帰りにダマスカスから隣国レバノンまで足を延ばした事まで含めると、予定より長くなってしまった。ひとまず今日で、シリアの思い出シリーズを了とさせていただく。

時にはこうして、かつて訪れた世界辺境の地について、たまに思いを巡らせてみたい。当時、シリアは文化的にも心理的にも未知の国、私にとってはやはり辺境の地だったのだ。

それにしても人の脳とは不思議なものだ。結構忘れていることもあったが、こうして読み返してみるといろいろな光景が鮮明に脳裏に浮かんでくる。



最後に、随分といろいろな人に出会い、大変お世話にもなった。彼らのその後について可能な範囲で触れてみよう。

もっともよく出てきたカレンは30代前半と昔のクラスメート時代から10年たってもなお若く、最近は洗練されてきた。フランスでMBAを終えた後、今は民間企業で働いている。世界のどこへ行っても有能ぶりを発揮して働いていけるだろう彼女だが、当面はレバノンに落ち着いているようだ。

半乾燥地帯の研究者だったK先生は、4年後の2010年秋に他界された。亡くなる数日後にはエジプト出張を控えていたように、生涯、好奇心と学ぶ気持ちを抱き続けておられた。いつも矍鑠としていて、典型的な「疲れを知らない研究者」だった先生に、古き良き時代の研究者魂をみた気がする。ICARDAでも先生の訃報はすぐに伝えられた。シリアへの思い入れは格別で、ICARDAのあるシリアに骨を埋めてもいいくらいにお考えだったとしても不思議ではない。それだけに、今のシリアを見ることなかったのは、むしろお幸せだったかもしれない。

ブログではあまり出てこなかったが、この会議の国際チームのコーディネートを一手に引き受けていた担当者に、カナダ人Cさんがいた。生真面目な性格だった彼女は、この会議の1年後に退職し、大学院に入り直したと人づてに聞いた。

同じく英国出身のリチャードは、私のレバノン行きに「そんなリスクを冒さなくても」と、唯一異を唱えたおじさん。ICARDAでもいいポストにつきながら、3年ほど前に別のポストを求めてカナダに移住した。シリア人と結婚しながら、シリアを出る時はたいそう喜んでいたとか。

スーダン人研究者のハナディは、その後の連絡はとれていないが、あの笑顔でどこかで元気にしている気がする。

かくいう私は、シリア行きの貴重な機会をいただいた前職場を去って、1年半が経とうとしている。同じ業界ながらも、組織が違えばかくも違うのかと仕事の進め方や慣習に驚いたり、システマティックなやり方に感心して学んだりと、たまたま前職では馴染みのなかった国や地域の担当になったこともあって、あっという間の1年半だった。これから調査研究の仕事も少しずつできそうと、仕事の幅が広がりそうでちょっと楽しみでもある。場合によっては、シリアのプロジェクトのような仕事にまた関わっていくのもいいかな、と書きながら思っている。

今回のシリア内戦の関係で心配していたのは、ICARDAのローカルスタッフでいつもテキパキを仕事をこなしていたZuka。仕事ははやく、ポイントを押さえてきちんとしている。しかも機転は利くが、無駄な点はバサッと端折ることもうまく、舌を巻く有能ぶり、働きぶりだった。ICARDA滞在の前半は、正直、シリアにこういう人材がいることにすら軽い衝撃を覚えていた。しかも、会って初めて知ったのだが、Zukaは足に軽い障害があるものの、それをものともしないどころか全く感じさせない働きぶりだった。だからこそ重宝されているのだろう。内戦の影響でおそらくICARDAも閉鎖中だろうと思いつつ、そのZukaにメールしてみた。

やはり、返事はまだ届いていない。

シリアの思い出(11)


朝5時にホテル前に迎えのタクシーが来ていた。このときの光景は妙によく覚えている。11月だったし日も昇っておらず、空もまだぼんやり蒼かった。次にいつまたシリアに来るのか、そういうことがあるかも想像できず、しっかり見おさめておこうと思ったのかもしれない。

帰りもパリ経由で、パリに着いた途端、急に日本人が目に入ってきたことが覚えている。お土産選びに楽しそうだった。気の張っていたせいか、私はどこか疲れていた。



帰国してからほどなくして、シリアやレバノンのニュースが遠い日本でも連日報道されるようになった。2006年11月21日に政府の要人、ジュマイエル産業相が暗殺された。カレンはまた、大変な日々を強いられていたかもしれないのに、帰国して脳天気なメールを送った我が身を反省した。

暗殺されたピーター・ジュマイエル産業相は享年34歳、反シリア派の政治家で、反シリアの発言を繰り返していたという。元レバノン大統領の息子でもあったことからもわかるように、レバノンきってのキリスト教派の名門の御曹司である。シリアの息のかかった武装集団ヒズボラのレバノンでの位置づけについては、想像以上のことはわからない。ベイルートで交通渋滞に巻き込まれた時、これもイスラエルのせいだと言ったカレンに、ジャドが急に食ってかかったことを思い出した。ジャドはシリア寄りのヒスボラを攻撃したイスラエルを、よくぞやってくれたとでも思っていたのだろうか。そう言えば、ジャドは何かにつけて言っていた。
「レバノン料理はシリア料理とは全然違う。しかも料理だけじゃない。すべてにおいてレバノンはシリアよりずっといい。車だっていい車が多いだろう?」
いい車といってもBMWとばかりである。
「何もすぐにシリアを引き合いにださなくても別にいいんじゃない?」
何気なく言った私にジャドの即答が帰ってきた。
I hate Syria!
一瞬耳を疑ったが、そう言い放つ彼の目つきは、Why?と聞く余裕すら与えてくれなかった。それに聞いても理解できなかっただろう。



その後届いたYさんからのメールによれば、
「こちらは、状況が少し怪しくなって参りました。本日はジュマイエル工業相の市民葬が大々的に行われる予定です。何も起きないといいんですが・・・。良かったですね。早めに帰国なされて・・・。こちらとしても安堵しております」
ベイルート行きに当たりこの方の存在は本当に心強く、カレンとの不思議なつながりもあって助けられた。アレッポにいる時から連絡させていただいた。今もって感謝の念を思い起こす。

カレンからも数日後にメールが届き、安心する。
「東京に無事着いたと聞き、ホッとしています。あの時帰ってよかったわ。聞いているかもしれないけれど、あの後レバノンはまた、不安定な情勢になっています。何が起こるかわかりません。写真ありがとう。みんなにも送っておくね」
カレンの友達も皆無事だそうだ。

アレッポで知り合ったハナディはICARDAのスーダン人研究者。メールで曰く、
「家に着いたのね。安心したわ。こちらは無事よ。シリアの空もアレッポも街もいつも通りよ。全く問題ない。といっても雨が降らないのは困りものだけれどね。農村ではこれから種をまくので雨がほしいわ」
ハナディはやはり研究者であり、外国人である。

ダマスカスへの帰路―シリアの思い出(10)


シリアのダマスカスからレバノンのベイルートへ来たのはその日の朝のことだったが、数日前のことのようにも思える。カレンとみんなと過ごした時間は、楽しい会話と少しの観光を詰め込むだけ詰め込んだ一日だった(おいしさをぎゅっと濃縮したマンゴジュースのように)。それでも明朝のダマスカス発の便に乗るため、私はその日のうちにシリアに戻らなくてはならない。

ビブロスからベイルートはまた少しある。小一時間はみておかないといけない。ジャドたちお勧めのお店で早い夕食をとり、レバノン料理を楽しんでからベイルートに向かう。しかしダマスカス行きのタクシーがなかなか見つからない。いつでも電話してと言っていた行きのドライバーは、週末だしもう帰ったのだろう。案の定、電話かけどもかけどもつかまらない。ダマスカスまで行く車がみつからず、本当に今日中にダマスカスまで帰れるのだろうか。そんな不安が顔に出ていたのか、カレンも日本人のYさんも送りましょうかと有難いお申し出。それとて国境までだし、あの道を往復させるのはいかにも忍びない。

結局、Charles Helou まで行き、そこでタクシーをつかまえることにする。Yさん、ジャド、ドナと途中で別れ、二人のカレンが送ってくれる。Charles Helou は、米国のダウンタウンにある大型バスグレイハウンドのバスティーボを彷彿させるようなところ。今朝来る時は待ち合わせ場所の予定だった Charles Helou だが、そこを通り過ぎてカレンの家近くまで連れて来てもらった。実はそれが安全面からもよかったのだと、夜の Charles Helou をみて思った。Charles Helou までくればタクシーはすぐにみつかったものの、相乗りタクシーだった。しかも私が最初で、ほかに数人ダマスカスまで行く人が現れるのを待つ破目になる。夜8時過ぎ、結局ドライバーを含むアラブ人男性3人と一緒に国境を越えることになる。

私はまた見知らぬドライバーにダマスカスまでの運命を託すしかなかったが、カレンが全て交渉してくれる。行きは同乗者なしで35$だったが、帰りは相乗りでひとり15$。二人分の席を確保したければ30$と言われる。カレンに二人分の席を確保した方がいいと言われ、迷う間もなくその通りにする。同乗者の一人は中年のおじさんで、もうひとりはアレッポに帰る若者。どうも彼らが15$払うようにはみえない。そのうち彼らは車内で煙草を吸い始める。窓ガラスのとってつけがよくないタクシーで、寒いので窓を閉めてもらった上に、もともと煙草の煙が苦手な私としてはたまらない。でも言葉も通じないし、たとえ通じてもここはアラブ、アラビア語も解さない女1人で男3人相手にモノ申す元気もない。そこで手荷物をしっかり抱えながら目を閉じひたすら眠る(ふりをする)。ふりのはずが本当に寝てしまったらしい。

まず、国境を越える時に起こされる。ここでは、外国人でもアラブ系外国人(シリア、ヨルダンなど)かそれ以外の外国人かで、手続きの窓が別れている。しかもそこにいる担当者はみな男ばかり。夜だし、アジア人どころか外国人もいなく(要は皆アラブ人)、妙に怖くなる。軍服姿の係員が唾を吐き捨てながら作業するので余計に気分悪くなる。こわばった顔をしているのもよくないが、ここで笑顔を見せるのもヘンな気がして、どうしていいかわからず所在なくしていたと思う。家族も心配しているだろう、ここで何かあったら日本でニュースになるだろう、などと思えてますます心細くなる。

寒い夜空下の国境で、私がほしかったのはシリアへの入国許可のみ。女性がアラブ世界で生きるとはどんなものなのか、アラブに生まれれば幼いころからどんな人生観を持って生きていくのだろうか、等々考えるうちに赤いパスポートを目の前につき返される。そこからは行きと同じ山道をひたすら走る。

次に起こされたのはダマスカスに着いた時で、二人の同乗者はもういなかった。ドライバーに30$渡すが見もせず無造作にポケットにしまうので、25$でも20$でもよかったのだろうかと思ったりもした。そのタクシーはレバノンから来たため、シリア(ダマスカス)の特定の場所までしか行けないことになっている。そのためホテルまでのタクシーを捜してもらう。
「ここからだとホテルまでは2$だよ。いいかい?」
「いいえ1$で行けるはず」なぜか直感的にホテルは近いと思った。
「じゃあそれでいい」
値段の決め方はかなり適当だが、1$でも高いような近さだったのには拍子抜けした。そのままホテルの前まで行ってくれたらよかったものを、と思いながらタクシーから降りると、ぎょっとするような兵士の群れがホテルの前にいる。デモでも始まるのか、あるいは祭りなのか、見当がつかなかったが、ホテル前に白い制服に帽子をかぶり、フセイン(当時のイラク大統領)の好きそうな槍をもったグループがホテルの前に立っている。まるで立ちはだかっているようだ。恐怖心を見せないように平静を装って、祈るような気持ちで彼らの前を通り過ぎ、ホテルの回転ドアを通る時も後ろを見ず、ひたすら部屋に急ぐ。

かくして、ドキドキのベイルート行きを終え、何とか無事、ダマスカスまで戻ってきた。
明日は朝5時にホテルをでなければならない。

つかの間のベイルート シリアの思い出(9)


カレンの友達ドナの車で一行は移動する。車内に5人ともなれば放っておいてもにぎやかだ。みなそれなりに英語を話すから、少なくとも話そうとするから、意思疎通もできる。たとえ大して英語を話せなくても、臆することなく話し始めるところが日本人とは違う。

ベイルート市内のある道路に差しかかった。車が数珠つなぎになっている。
「みてよこの道路。もともと5車線なのに、7月のイスラエルの攻撃で道の一部が破壊されたでしょ。だから今は一車線しか通れずにこの渋滞よ。だからみんなイスラエルに怒っているの。」
We are angry with them. カレンが言うと
No, we aren't. とすかざす友人のジャドが語気を強める。
Yes, we are.
No, we aren't.
Yes, we are.
 ・
 ・
 ・
こんなやりとりがしばらく続く。

車中に私以外にレバノン人が4人いるのに、聞き流すのでもなく真剣に取り合うのでもなく、かといって誰もとりなすことなく、ただ聞いている。ここで、「分かった。カレンはイスラエルに怒っているけれど、ジャドは別の考えなのね」と、新参者が割って入るには大真面目に言い合っている。それもまだ続く。
No, we aren't.
OK. But I am.
ようやくリズミカルなカレンの言葉で一応ケリがつけられた。

続いてカレンが説明してくれる。
「この国ではね。何かあるとすぐ政治の話になるの。みんな政治に関しては一家言もっている。そしてそれぞれが違う見解なの。だから誰もが口を開くの。黙っちゃいられないのよ」

ふ~ん、と思いながらそれはいいとしても、この時はジャドがなぜここまでヒズボラをかばうのかわからなかった。ジャドは眼光は鋭いが愛嬌のある性格。IT関係の仕事についているというから、政治に肩入れしている風にもみえない。しかしシリアのこととなると必ず出てくる。まあここは中東だし、おそらく日本人には理解しがたい壁があるだろう、とその時は別段気にもしなかった。

「でもね、それがこの国なのよ。背景となる宗教も違うしね。私はモスリムだけれど、カレンはクリスチャン、ドナとジャドもクリスチャン。でもこうやってソーシャルライフは一緒に楽しむのよ。レバノンではね、ソーシャルライフに休みはないの。イスラエルの攻撃の時だって、仕事は機能せずオフィスもお店も一ヶ月休みになったけれど、それでもソーシャルライフはあったのよ。だって爆撃におびえて家に閉じこもっていても、ニュース聞いて欝になるだけでしょ。だから友達と会ったりパブに行ったり、毎日何かしら楽しんだわよ。思いっきりというわけにはいかなかったけれどね」



「ねえSainah、ベイルートに来てくれてありがとう。あなたがここまで来てくれたことが本当にうれしいのよ」
二人になった時、不意にカレンが口を開いた。
「日本でどのくらい聞いているかわからないけれど、最近、この国もいろいろあってね。何かと落ち着かないのよ」
実は表面的なニュースを聞いただけで、殆ど何も知らない。日本の報道ではスリランカの民族紛争の方が主に取り上げられていた気もする、と言っても弁解にもならないので黙っている。

「レバノンとシリアの対立も根深くてね。つい最近、レバンノンの反シリア派の大臣が何人か辞任したりして、レバノン人の私が国を出るのはよくない気がしてきたの。シリア国境で何かあって帰って来れなくなるんじゃないかって、両親も私のシリア行きに反対でね。だから無理を承知で、あなたに来てくれないか頼んだの。出張で疲れているだろうに、ここまで来てもらうのも悪いなと思ったわ。でもアラブ人でもなく外国人のあなたなら問題ない、何かあればサトルも助けてくれるかもしれないとも思ったのよ」

サトルとは当時日本大使館職員としてレバノンにいらしたYさんのこと。ICARDA滞在中にレバノンの日本大使館に電話して出られたのがYさんだった。その時、「つかぬことをお聞きしますが、もしかしてカレンさんとお会いになるんですか?」と聞かれたのだ。そして、何とカレンと先週会っているということだった。面白いことに仕事であったのかと思いきや、金曜のパブで会ったとか。友達と三人連れのカレンが、一人で来ていたYさんに話しかけて言うには、「ハイ、私カレンです。日本大使館のひと?そうなんですか。来週私の日本人の友達がシリアから来るんです」と話しかけたというのだ。もしかしたら、私が電話したときYさんはすでにカレンから聞いていたのかもしれない。

そのYさんもヒズボラ遺跡から「ツアー」に合流した。「本当はカレンのような人にうちの大使館でも働いてほしいんですけれどね」と言われる。Yさんの気持ちもわからないでもないが、カレンには大使館の仕事を任せるのもまた勿体ない、とも思ってしまう。

カレンとのおしゃべり シリアの思い出(8)


今までのすき間を埋めるかのように、遺跡を回りながらあれこれおしゃべりに花が咲く。

「ねえ、Sainahは卒業式の後、すぐに日本に帰ったの?」
卒業式は2002年の初夏だった。今回カレント会ったのはその2002年以来ということになる。
「引越しの荷物を出したあと卒業式に来てくれた家族と旅行してね。卒業式の後、5月末からボストンやワシントンDCを少し回ってそのまま一緒に帰国した。」
「そういえば、旅行に出るって言っていたわよね。」

カレンが卒業式後の学校の様子を教えてくれた。
「卒業式の後、急にみんないなくなって何だか寂しかったわ。私はあの後、夏の間はアメリカでインターンをしてね。その後ベイルートに戻ったんだけれど、ボーイフレンドがいたから半年後にまだ戻ってきたの。そして大学で1年働いた。L先生覚えている?彼の下でリサーチをする予定が、外国人だとビザの関係で難しくてね。彼はそこまで研究費が潤沢ではなかったから、ビザの手当てまでカバーできないと言われ、結局それができるA先生のところで働くことになったの。ベッキーって覚えているしょう?彼女と二人で、ドクターの学生二人の手伝いをしたの。そりゃもう退屈だったわよ」
「退屈?A先生の仕事を手伝ったんでしょう?」
A先生といえば、ユーモアと人間味あふれるフレンドリーな先生だった。機会があれば一度働いてみたかったと思うような先生だ。でも確かに放任主義な気もする。

「リサーチといってもね、木のbdhを測定し、決まった式に入れて計算する作業が延々と続くの。最初は覚えることもあったし物珍しさもあったけれど、一度すればあとはその繰り返し。1年もすると誰だっていい加減いやになっちゃうわよ。しかもその間、米国でいいポストがあればとずっと仕事を探していたのよ。でもだめだった。私はこれでも一応いい成績で米国の大学院を出たのに、私の何がだめなの?と選考の結果を聞かされた時に聞き返したこともあったのよ。そうしたら何といわれたと思う?外国人はビザやら何やら余計な負担がかかるから、なんですって。絶対 September 11th の影響よ。どれだけのCVを出したことか。もうほとほとアメリカに嫌気が差してね。そんな頃、レバノンが無性に恋しくなったの、そうしたらもう速かったわ。あっという間に荷物をまとめて帰国しちゃった」

そうだ、私たちが米国にいた頃、ニューヨークのテロ爆撃があったのだ。もしかしたら、彼女がレバノン人であることも無関係ではあるまい。カレンは決して自慢するタイプではないが、どんなに自信を持っても当たり前と誰もが納得するほど、文句なく優秀なのだ。

「カレン、あなたは頭もいいし何ヶ国語も話せるから、どこでも働けると思っていた。だから今回だってレバノンにはいないんじゃないか、と半信半疑に思いながらメールしたのよ」
「でもね、レバノンが恋しくなったの。学校でのアメリカ人クラスメート、覚えている?何かこう打ち解けなくなかった?パーティーばかりしているけれど、結局アメリカ人だけで固まっていて想像以上に閉鎖的だと思ったわ。米国はずっといる場所ではないと思った」
これは意外だった。カレンはベイルートのアメリカン大学を出ていたから、日本の環境から米国に行った私と違って英語にもアメリカ人気質にも何不自由なく慣れており、何の苦労もなかったのだと思っていた。

「ううん、ベイルートのアメリカン大学は教育のシステムがアメリカ式というだけで、学生はみんなレバノン人だもの。全然違ったわ。留学中思ったのは、アメリカ人のつきあいはあまりに表面的皮相的すぎること。だからとてもついていけなかったし、私の友達はみな留学生だったわ。シマ、シトラリ、セザール。あ、Hatsyは例外ね。もう人生の先輩だし母親みたいなものだもの。Hatsyは骨折したりして私たちと一緒に卒業できなかったでしょ。あの後2年近くかけて卒業したのよ。Hatsy によくからかわれたものよ。カレンの国は砂漠のど真ん中にあるって。砂漠じゃないわよ乾燥地よ、と言い返したことを思い出すわ。Hatsyてホント愉快よねぇ」

Hatsy とはお茶目な中年女性だった。同級生だったが成人した双子の娘に孫もおり、私の家系は双子が多いも、と言っていた。当時1人でいたが、やはり経済力があるのか、学校近くにアパートを購入していた。「借りるなんてつまらないわよ。自分の物にすれば自分で使えるし、卒業後も人に貸せるでしょ」と言い放っていた。彼女の場合、怪我で卒業に時間がかかったことを考えると賢い選択だったと言わざるを得ない。おそらく年齢的には自分の母より若いだろうが、おそらく苦労の数ははるかに多いと思わせる風貌だった。ただ、気持ちは周囲の若い学生よりはるかに若かった。最後に会ったのは卒業式後のお別れパーティーで、真っ赤なドレスを着ていたが、あの何とも愛嬌のある笑顔が懐かしく思いだされた。

などなど、同級生や思い出話に花が咲いた。



カレンは、アラビア語、英語のほかにドイツ語、フランス語を操る才女だった。語学の才能もさることながら、彼女は当時20代前半で学年でも最年少の大学院生ながらとにかく成績優秀だった。お母さんがドイツ人ということもあり、おそらく卒業後もレバノンには帰らないのだろう、そんなふうに勝手に思っていた。なのにレバノンに戻っていた。

「レバノンに帰ってきて仕事を探すのは難しくなかった?ここの就職事情ってどうなの?まあ、あなたならすぐみつかったでしょうけど」
「それがそうなのよ。周囲は職探しを大変がっていたけれど、友達に環境関係のコンサルを探していると言ったら、空きポストがあると教えてくれてね。それが環境省のコンサルだったのよ。運がよかったのよね。そこに採用されて1年ほど働いたわ。そこではUNDPをはじめUN関係のプロジェクトの仕事をしてね。その後今の会社に移ったの。今の仕事はね、応募してもうんともすんとも言ってこなかったの。だから私、直接オフィスに出向いて言ったの。『ハ~イ、私、先日○○のポストに応募したカレンです。もっと私のことを知っていただきたく伺いました』ってね」
「そういうやり方はいかにもアメリカらしいよね。レバノンではそういうやり方ってよくあるの?」
「それが全然。まずないと言っていいわね。ところが雇い主だった私の上司はドイツ人でね。アメリカで教育を受けたこともあるから、私のそういうアプローチやドイツ語ができることも含めて気に入ってくれたらしいの。レバノンでこういう訪問を受けたのは初めてだと言われ、とんとん拍子で採用されちゃった」

いかにもカレンらしい。それでも驚かないほど彼女は優秀だ。成績だけでなく、とにかく機転が利き頭の切れがいいのだ。
「私ね、米国と欧州のMBAに今応募しているの。英国は1年コースなの」
「欧州ってオランダとかではなく、英国なの?」
「だって英語で授業受けたいもの。ほかの言葉ではわからないから」
カレンは確か学部卒業後すぐに大学院に来た珍しい口だった。私たちがいた大学院は、アカデミックでないプロフェッショナルスクールということもあり、学卒でストレートに来る人は非常に少なかった。ということは、まだ20代だろう。MBAを考えるもの不思議ではない。

「MBAをとろうと思うのもね、キャリアシフトを考えているの。環境だけじゃだめだって。ファイナンスを専攻して、国際機関で働くことも考えているの。やっぱりレバノンでの収入って高が知れているのよね。将来家族を持った時、お金で苦労したくないってやっぱり思ってしまうのよ」
せっかくこういう場所にいるのに、ICARDAなんかは興味ないらしい。ドイツ人を母に持ち、ベイルートの由緒あるアメリカン大学を出ているカレン、世界を知ってしまっているカレンの血が騒ぐのだろう。といいつつ、結局カレンはフランスのMBAに進んだ。どこでもやっていける彼女のことだから、将来が楽しみだ。

ベイルート着  シリアの思い出(7)


カレンの故郷、ベイルートの街にやってきた。中東のパリと言われたのとはいつの頃だろう。中世にはきっと、地中海沿いの美しい町だったのだろう。今は、割と普通の街にみえなくもない。
4+Beirut.jpg

カレンはお母さんがドイツ人だったこともあり、幼少時にドイツで4年ほど暮らしている。
「あの頃レバノンは内戦だったから、母の国でしばらく暮らした方がいいということになったの。レバノンに戻ってきたのは内戦が終わってしばらくしてからよ。妹は今もドイツにいるわ」
町のあちこちにみられる戦争の痕跡は、最近のニュースが事実であったことを物語るには余りある。日本にいると、咄嗟に紛争や爆撃のニュースを聞いても不慣れなせいか、同じ地球上でこういう事が起きていることをにわかには信じ難い、一種の「免疫不全」にかかってしまうようだ。



カレンのレバノン半日巡り計画はベイルートの観光シンボル、鳩の岩から始まった。
3+Beirut.jpg

次に向かったジェイタ洞窟は、鍾乳洞の大きさが日本にはない見事なつくりで、きのこ型の鍾乳洞もたくさんみられ、てっきり遺跡だけかと思っていたレバノンにも壮大な自然があることを知る。鍾乳洞の保護のため写真撮影は禁止なのだが、夏には洞窟内でコンサートが開かれたらしい。一通り回った後、洞窟内の湖をボートで回るツアーに。洞窟に向かう車中でカレンに「ところで保険に入っているわよね」と不意に念を押される。

この後、バイブルの語源でもあるというビブロス遺跡へ。ダマスカスも確かそう聞いたがベイルートは世界最古の都市のひとつであり、紀元前5世紀からフェニキア人が住みついたという。地中海沿いに位置する宿命だったのだろう、ローマ軍・十字軍もやってきた、その時の砦はここで、攻撃はこう、王のお墓は、とカレンの友達が入れ替わり立ち代り、何よりも誇らしげに説明してくれる。
5+Beirut.jpg 6+Beirut.jpg

確かに、誇らしく思わないわけがないほど、すごい遺跡だ。6000年前に人が住んでいた住居跡、十字軍が攻め入ったときの砦と砲弾に備えた柱、当時から設けられた野外劇場――世界の子どもたちの殆どが世界史の教科書で一度は習う事項がこの地で展開されていたかと思うと、レバノンの重厚な歴史と文化に圧倒されそうだった。
7+Beirut_convert.jpg

もっともビブロスは世界遺産だと知ったのは、帰国してからだった。岐阜県ほどの大きさのレバノンに世界遺産が4箇所あるという。

ダマスカス→ベイルート シリアの思い出(6)


シリア行きの中でも今日は、オマケと呼ぶには軽すぎるほどの、番外編ベイルート行きである。友達カレンに会いに行くためのレバノン行きはしかし、シリア滞在中に決まったので心の準備が追いついていなかった。本当にベイルートに行けるのだろうか、シリアとレバノンは緊張があるのにシリアに無事帰ってこれるだろうか。いかにも中東に不慣れで単独行動している日本人女性は、狙うには格好の相手ではなかろうか。

そんな私の不安を知ってか知らずか、タクシーのドライバーは、8時きっかりにロビーに待っていた。私の彼への信頼の依って立つところは、友達カレンの会社のベイルート支所を通して予約したタクシーである、というただ一点のみである。このドライバー、走り出して間もなくどこかのアパートに寄って荷物を積んだり、軍服に身を包んだ友達を途中でピックアップしたりと、本業ついでに忙しい。若き兵士は途中一部区間を同乗するが、彼らの会話は当然何もわからない。シリアの演歌だろうか、ラジオから流れる音楽をバックに、途中 UNRWA のサインがみえるが、シリアも含めて街中でUNの文字を見たのは初めてである。

間もなく、車窓に広がる乾燥地帯の赤茶色の山々のすそのに細かく点在する家々、といった一枚の絵のような光景に、思わず目がくぎ付けになる。その後40分ほどで国境着。ドライバーは国境手続きもすべてしてくれ、私は車で待っているのみ。空気を吸いに外に出てみるものの、国境付近はやはり気安く歩ける雰囲気もなく、また日本人が珍しいのかすごい視線を感じ、平静を装いながらも内心慌てて車に戻る。関門所の近くにシリア観光省の建物があるが、とても観光気分とはいかない。この情勢の中、無事の再入国をひたすら祈りながらの出国である。アレッポにいた時、急に決まった国境を越えたレバノンはベイルート行きについて、K先生はじめ何人かには「レバノン行きは大丈夫ですよ」と言われたものの、一人だけ「どうしてまた。私だったらそんなリスクはおかさない」と言っていたICARDAの男性職員の言葉を思い出す。彼は英国人だったと思うが、シリアに住んで長い。しかもシリア女性を結婚していてこのセリフである。何かあったら彼の言う通りだ。

ベイルートに向かう道(ダマスカス市内)        国境の関門所
1+to+Beirut.jpg 2+to+Beirut.jpg


朝9時過ぎレバノン入国。ベイルート近し、やっとカレンにも会える、と胸が弾むものの、それからが大変な山がちの道が延々と続く。予定通りカレンがシリアに来てくれるとすればこの道をくるのであろう。この道を若いカレンに運転させなくてよかったとも思った。ベイルートの町が遠くに見えてもなおひたすら山道を下っていく。ところどころにみえるのは7月のイスラエルの攻撃を受けた跡地であると、ドライバーとのたどたどしいやりとりで理解する。この辺に関する知識といっても、古くはチグリス・ユーフラテス川、下って十字軍、オスマン・トルコやアラビアのロレンスしか知らない私には、この地域で続く内戦や緊張関係の背景への理解ができていない。朝9時45分、シリアに来て(いやここはレバノンだが)初めて教会の建物が目に入る。やはりここはレバノンなのだ。

目的地に近くになったのか、ドライバーがカレンの番号を聞いてくる。彼はシリア用とレバノン用の2台の携帯を持っており、運転しながらも器用に使い分けている。カレンとつながったのだろうか、しきりに話しているが目的地Charles Helouらしきところを通り過ぎてもまだ車は走り続ける。この人私をどこへ連れて行くのだろう、アラビア語はわからないしここはレバノン、再びいろいろな不安がよぎる。私の思いを見透かしたかのように、ドライバーにEverything is OK. と不意に声をかけられ、余計に心配になる。OKと言われても、すでに右手には海が広がっているではないか。明らかにカレントの待ち合わせ場所のCharles Helouを通り過ぎてベイルートの中心を走っている。かと思うと、行き止まりの道に入りバックしかけて後ろの車にぶつかっている。それでも我がドライバー氏は窓を開けて失敬と手を上げるのみ。日本だったら、血相変えて双方の運転席から人が降りてくるものを。さらに、車は左に右に曲がり進んでいき、町の小さなガソリンスタンドで止まる。余計心もとなくなるではないか。私を不安に陥れるには十二分なシチュエーションである。と思うと誰かがドライバーと話している。カレンだ!

「ハ~イ、Sainah!Welcome to Beirut!」
「カ、カレン…」
緊張の糸が解けてもまだ拍子抜けしている私。思わず声がうわずっている。

「みて、ここが私の育った町よ。このアパートには今両親が住んでいるの。私もここで育ったの。今は市内の別のアパートで一人暮らしだけれどね。でも7月の戦争以来しばらくは両親のところで過ごしたの。何かあったら家族一緒のほうが安全でしょ。このガソリンスタンドはね、毎日立ち寄るまあ私の庭みたいなものよ。ドライバーから電話がかかってきた時はまだ私シャワー浴びていたの。だから家まで来てもらっちゃった。私の車はあっち。さあ行きましょう。今日はいろいろスケジュールがあるのよ。まずはね」

私の気持ちをよそに、カレンは事も無げに話し続ける。しかも昨日会ったかのように。クラスメートとはそういうものか。

シリアの思い出(6) 2006年11月


朝7時半にアレッポの宿を出て車で10分ほど走ったアレッポ大学でも二人をピックアップ。ICARDAの研修を受けに来たエリトリアとリビアの二人を加えた計6人を乗せたマイクロバスは、一路ダマスカスへ。しかしアレッポ-ダマスカス間の道のりは想像以上に長く、きつく感じた。体力的にも疲れがたまっていたのかもしれない。考えてみれば、行きはVOLVOだったからかほとんど揺れも感じず快適なドライブだったが、帰りはバンだったし途中ひどく揺れた。ホテルの部屋に着いた途端、体を横たえて休むしかなかった。

しばらく寝たのか、目を覚ましてからガイドブックを見る気力も沸いてきた。このガイドブック、2006年当時にシリアのガイドブックが皆無の中、みつけたものである。

ダマスカスには、中東で一番大きなモスクがあると言う。4000年前から人が住み続けているという街を見ないのも勿体ないと思い、ゆっくり起き上がる。空腹も感じず、地図片手に歩き始める。

通りを歩いていると途端に視線を浴び、再びみたび、自分が異邦人である現実に気づかされる。昔の日本を歩く外国人もそうだったのだろうか。しかし彫りの深い目でじっとみつめるかのようにみられるのと、細い目で好奇心のまなざしで観られるのでは、「観られ方」が違うというものだ、とは一日本人の解釈。途中で出会ったドイツ人女性に道を教えられる。彼女も今日がダマスカス初日だそうだ。しかしイエメンに住んでいたこともありアラビア語は読めるというから年季が違う。ICARDAのワークショップの帰りだと話すと、「私も昔は農業を勉強したけれど諦めたわ。今はECの経済プロジェクトの仕事で2、3年はここにいるつもりなの」と話しながら、マーケットの入り口、スーク・ハマディーエまで案内してくれる。

週末の金曜日でお店はほとんど閉まっているが、普段と違う姿をみせてくれる閑散とした通りを歩くのもいい。しかしお店のシャッターが閉じているだけで、ウマイヤド・モスクに続くためか、通りの賑わいはなかなかのもの。今日が金曜日でよかったと思う。これでも十分混んでいるし、お店が開いていたらもっと疲れていたに違いない。今日の私は、ただ街を歩きダマスカスの空気を味わうだけで十分だったのだ。4000年の昔から人々が住み続けて以来、町はほとんど変っていないと言う。Lonely planetによると、「驚くべきペースで変っていない」とある。ここがチグリス・ユーフラテス川流域であり、オスマン・トルコ、十字軍、アラビアのロレンスまで生きたところなのかと思うと、日本人の私ですら歴史の重みに圧倒されそうになった。

帰りも歩きながら、カレンもこういう場所で育ったのかなどと思いを巡らせた。歩きながら、どうも広場で放射線状に広がっている道から入る方向を間違えたようである。バスターミナルと思しきところに着いてしまい、そこからタクシーでホテルに帰る。

明日のベイルート行きに備えるべく、ホテルでタクシーについて聞いてみたところ、数時間で80$だったタクシー料金が90$に上がっている。安全を買うと思い90$でもいいかと思ったが、どうも釈然としない。カレンに電話すると、ダマスカスの同僚に連絡してくれ、同乗者がいれば24$、いなければ36$と教えてくれた。まあどちらでもいい。まずホテルのタクシーは断り、ついでに日曜日は朝早いので空港行きのタクシーまでカレンの同僚に予約してもらう。

シリアの思い出(5) 2006年11月


ワークショップ最終日。乾燥地帯で実施する農業プロジェクトの会議なので、今回の参加国は、ヨルダン、エジプト、中国、チュニジア、ウズベキスタン、イラン、フランス、カナダ、日本、シリアである。この中で、フランス、カナダ、日本はドナーとしての参加、シリアがICARDAのホスト国ということもあり調整役。このメンバー間のやり取りを見ながら、途上国の研究/研究者を支援するプロジェクトの協働作業とはいかなるものなのか、実体験したことになる。今回、代理参加だったが、こういうプロジェクト会合の進め方を見ていると気づきや学ぶところが大変多く、参加させていただいたことに深く感謝したい。

例えばフランスのTさんは、コーディネート術に長けており意見をまとめるのがうまい。カナダのCさんは几帳面でやや神経質。きちんとしていてまじめな性格が滲み出ている。反面、二人ともプロジェクトをいかに円滑に進めていくかに注力するあまり、研究者たちの意を汲んでいないときもあり、研究者の諦めや冷めた目を感じる時も傍から見ていてあった。その両方が部外者の私がなぜ気付いたのかはわからない。プロジェクトメンバーとはいえ、ちょっと距離を置いた立場にいる職場からの(しかも代理での)参加という立場の気楽さゆえかもしれなかった。国際協力と研究の接点にある仕事に興味を初めてもったのもこの頃だったと思う。



嬉しいことに、エジプトのモハメド(※)の提案で、最終日の午後はフリーとなった。アレッポの街を昼間歩けるのがうれしい。ビザのことで知ったが、シリアでは金曜日から週末が始まる。つまり木曜の明日しか、普段着の町を見ることはできないということだ。グレートモスクまでみなで行くが、スークに向かうみなと別れアレッポ砦にティモシーと向かう。

1+aleppo+final.jpg 2+aleppo+final.jpg

アレッポ砦からみたアレッポの街並。工事中ながらひたすら美しく感じた。
3+aleppo+final.jpg

ティモシーは中国の研究者で、彼の同伴は心強かった。オリーブ石鹸を二人で探したまではよかったが、その後ハンディクラフトのお店でアクセサリーを買わされそうにもなり、彼の助け舟に救われた。こういう時、私は押しが弱くだめである。中国人の彼からすれば値切りや交渉拒否など日常のことらしい。通りを行き交う車からはいつも手を出して守ってくれるし、シリアに来て初めて会ったアジアの同胞は、有難い存在であった。

4+aleppo+final.jpg 5+aleppo+final.jpg


その夜、カレンとも電話で話せた。懐かしいアルトの声である。
カレンの会社のシリア支社が手配をしてくれた車で、明朝、レバノンはベイルートに向かうことになった。
「タクシーの運転手には気をつけてね、クレイジーな運転することもあるから。あと片道30$以上は出しちゃだめよ。15$から始めて20$までしか出せないというの。それがここのやり方なんだから」
電話の向こうでカレンのウィンクが目に浮かぶようだ。しかし危ない運転をされたとしても、40$ふっかけられたとして、いったい私に何が出来るというのだろう。

(※)ちなみに、ここにはモハメドが一人や二人ではない。実際、「モハメド」が多くて困った。ヨルダンのモハメドは茶目っ気たっぷりに言う。
「世界で一番多い名前は何か知っている?モハメドさ。二番目がマイク」
あながち冗談でもあるまい。

シリアの思い出(4) 2006年11月


一度は諦めかけたレバノン行きの状況が好転した。

会議のロジ全般を担当しているICARDAの職員Zukaにビザの件を聞いてみると、「ここではビザを取るには丸二日かかるの。しかも金曜日は休みなのよ。レバノン行きについて、最初に言ってくれればどうにかできたと思うんだけれど」と残念そうに言われてしまう。そう、シリアでは金・土が週末になるので、平日は木曜まで。その日は確か水曜だった。Zukaをしても無理なら本当に無理なんだろう。ここで二度目の諦めに入る。

するとそこに思いがけず K 先生登場。すかさず近くにいたICARDAの男性職員(visitor 担当だったことがあとで判明)に「ちょっと聞きたいんだけれどレバノンへ行くのは難しいのかな。彼女は土曜日に友達に会いにレバノンに行く予定だが、シリアに戻ってくるにはビザが必要でね」と話して下さる。即座に We will work on it. と力強い返事。耳を疑ったが、改めてK先生の偉大さを感じお礼を申し上げる。「ICARDA はこの国ではかなりの力を持っていますからね。何とかしてくれると思いますよ」

その言葉通り、昼休みにはビザ申請に必要な両親の名前を聞かれ、必要な顔写真もパスポートの写真をスキャンして用意してくれる。そのまた1時間後には、全て上手く行っているので明日午前10時には届くだろう、とZuka。感謝感激しながらこの速さに舌を巻いていると、K先生も「ここは動きが速いですからね。日本の某職場よりはるかに仕事が速い」と仰っていた。K先生が度々シリアに行く理由が分からなくもないと思った。

繰り返すが、繰り返したくもなるほどICARDAのスタッフの仕事は速い。例えば、前日のエクスカージョンについて、今朝一番に「ジェンダーの視点が少なかった」とのコメントが出た。すると一時間後にはICARDA内でジェンダーサイドのプロジェクトを紹介するツアーを主催者が組んで、アナウンスする。ジェンダーが少ないと言ったのはエジプトからの参加者、ボシュワという女性。押しも強く早口でまくしたて、どのセッションでもどの議論でも発言しない時はないほどだ。参加者には男性が多く(しかもイスラム系や中国の男性が大半)、この意見に敢えて口をはさむ人はいない。

ジェンダーに関して私はこう思った。ジェンダーも大切だが、地域のリアリティもある。農村とは往々にして男性社会だし、表向きはそうでも日々の生活では女性が仕切っていることも多い。そういう現実を、一日のエクスカージョンで見るほうが無理なのではないか。たとえみたとしても私は懐疑的にならざるを得ない。ここはシリアである。シリアの農村社会でどうやって女性の活動を、ポッとバスで訪れたよそ者がみられるだろうか。しかも彼は我々の訪問の目的を解していなかった。となればむしろ、そのような例を目にしなかったことが自然でありリアリティを反映しているはずだ。と言いたかったのだが、そんなことを弾丸ボシュワの前で言えるはずもなかった。



夜はICARDA主催による地元のレストランでの食事会。

ディナーは由緒ある建物を改造したというレストランの地下で行われた。もちろん、チーズやらオリーブを中心としたシリア料理である。目の前に並んだ料理をみながら、中学生の頃に教科書で習った、「地中海性気候の地域は、降水量は少ないが比較的温暖な気候。オリーブ、柑橘類などの農作物が豊富にとれ・・・」といった教科書の記述を前に思い出す。あの頃は、その地域での生活というものがピンときていなかったし、教科書以上のことは何も想像できないでいた。しかし、こうしてその地に来てみるとなるほど、と思うとともに、想像にも幅が出てくる。地形や地理的条件は住む人の生活を決め、時に歴史を形成し、社会の基盤となっていること、そして乾燥地帯にはそれなりの農作物や生きる知恵があり、生活している人々がいることー昼間のエクスカージョンを思い起こしたりもしながら、どれをとってもまことに興味深かった。

何も用意してこなかった私以外の女性はみな着飾って登場。こういう時にK夫人の着物は映え、私まで日本人の誇りを感じてしまう。あのボシュラもあでやかな服に身を包んで登場。周囲にヨルダン勢がいるせいかアラビア語で話しているし、目が合うたびに笑みかえされてもちょっと恐かったり(?)。また、エクスカージョンで話して以来、意気投合したICARDAで働くハナディも、目の覚めるような黄色のドレスに身を包み、まるで別人のようである。ドイツで学位をとりICARDAに来て3年目の彼女は、母国スーダンに住むご主人とは毎日電話で話しているという。
「朝晩二度話すこともあるけれどたわいのない会話ばかりなのよね。だから電話代はものすごいわよ」
「ICARDAで働けるなんてすごいわね。どうやって今のポストを得たの?」
ポスドク研究員とはいえ、国際レベルで乾燥地帯の農業研究を進めている研究所は少ない。それだけポストを巡る競争も激しくなる。
「学位をとって国に帰ろうと思っていたんだけれど、空席に応募したのよ。結構競争激しかったのよ、このポスト。最後に残ったのは日本人とイラン人と私だったんだけれど、運良く採用されたというわけ」
スーダン人の彼女がアラビア語を母国語とすることと、もしかして女性であることも決め手のひとつになったのかもしれない。

こういうよもやま話も交えながら会は進み、夜が更けていく。不思議なのは、この食事会、流れが成り行き任せというか、何の乾杯もスピーチもなく淡々と始まったことである。どこに座るかは各自の自由とはいえ、一体いつ食べ始め、いつ去っていいのか皆目わからなかった。最後のお茶が終われば三々五々に散っていった客もいたが、私はそれでもその場を立ち去れず主催者が立ち上がるのを待って、一言お礼を述べて帰った。お礼を言わずに無言で去ることなど、日本人すぎる私には到底できない芸当だった。



食事会を終えてホテルまで歩いて10分ほど。皆で連れだって、マーケットを通りながらホテルに戻る。11月ということもあり、夜道のアレッポは肌寒い。冬支度をしている街の様子から冬の厳しさが伺える気さえした。

シリアの思い出(3) 2006年11月


ここまできたのだから、できれば帰りにカレンに会って行きたいと考えていた。カレンとは米国留学中の同級生で、ベイルート在住のレバノン人だ。お母さんはドイツ人だったと思うが、何かと気があった留学生仲間だった。

最初は、カレンがシリアのダマスカスに来てくれることになっていた。私のアレッポ行きを話した時、ダマスカスで彼女と会う予定だったが、その時の政治情勢(イスラエルのシリア攻撃)ではレバノン人の彼女が隣国シリアに来るには危険になってきた。家族、特に彼女のお母様の心配は理解できた。とはいえ、ベイルートに来れないかとカレンに打診された時は、虚をつかれた。平常時なら行ってもいいのだが、安心していける感じもしない。ダマスカスから隣国シリアのベイルートに行く道のりがどういうものなのかも全く想像できなかった。外国人だからより安全と彼女は言うが、単に当事国でない地域から来た外国人、というだけで、ある意味余計に危ない気もしなくもない。とりあえず、ベイルートへの行き方を調べたところ、いくつか難題があることがわかった。まず一人であること、のほかにビザの問題。何もレバノン入国は国境でビザを発行してもらえるが、シリアに戻るのにビザが要る。レバノンではシリア入国のビザは取れないらしい。何ということ。日本ではシングルのビザしか取ってこなかったのだ!国境の存在を大きな障壁として感じた。

どうしたものかと思いながら、中日のエクスカージョンに参加する。この手のワークショップは、会議や机上の議論から離れてフィールドに出たり、研究所の活動を案内してくれる。息抜きの意味合いもあるし、こういう時に仕事の話が進む時もある。今回のビザの件もなるようにしかならないし、エクスカージョンに参加して頭を冷やすなり誰かに話してみよう、とそんな感じで参加した。

フラミンゴが集まるという塩湖やICARDAのフィールドオフィスを巡る。途中に立ち寄った集落では、Dormがいくつも連なっていた。遠くから見ると小人の家のようでかわいいが、Dormと呼ばれている家の造りは、放射線状を逆さにした形をしている。土塀でできており夏は涼しく冬は暖かい構造になっている。
1+aleppo.jpg 2+aleppo.jpg

3+aleppo.jpg 4+aleppo.jpg

広がる乾燥地帯の大地。
6+aleppo_field.jpg 7+aleppo_field.jpg

地元の女性や農民の声も聞けてなぜかうれしい。子どもたちはいつでもどこでも愛くるしい。
5+aleppo field

シリアの思い出(2)


朝、4時に目が覚める。間もなくどこからかインドネシアで聞いたようなイスラムの祈りが聞こえてくる。そうだ、忘れていた。ここはイスラム圏だったのだ。朝6時の出発も5時半朝食も、いくらなんでも早すぎないかと昨晩は思ったが、とっくに起きている時間らしい。しかもダマスカスからアレッポへは3時間の道のりと聞いている。ちなみに朝食に出された何やら黒い丸いもの――表面のツヤからしてお正月の黒豆に似ているので大豆かと思って齧ったら、オリーブの味が口内に広がって慌てた。オリーブとわかった瞬間、またもや遠いところに来てしまった、との思いに襲われる。それまでこんなもの(↓)を食べる国から来たのだから。

これがダマスカスでの朝食。右は比較まで、成田で食べた鯛茶漬け。
3+breakfast_20120907013513.jpg 4+tai.jpg

ダマスカスから北部アレッポへ向かう。走りながら、黄色ともベージュともみえる、乾いた丘が道の左側一面に広がる。標識や看板にはアラビア文字ばかりだが当然だろう。SHARP、NISSAN、少ししてHYUNDAI文字も目に入る。短木が多いもののコンクリート造りのアパートが立ち並ぶ。
5+aleppo.jpg 6+aleppo.jpg

風の向きで沿道の木々はこんな形をしている。オリーブの木もみえてくる(右の写真)。
8+aleppo.jpg 10+aleppo.jpg 

かと思うと赤茶一色の岩山、乾いた岩と景色が変わっていく。土の色ひとつとっても目が釘付けになるような様々な色が目の前に出広がっては消える。しばらくするとオイルタンクが見えてくる。Homsの辺りらしい。

7+aleppo.jpg 15+aleppo.jpg

ひたすら真っ直ぐに続く道。後で聞いたことだがダマス-アレッポ間が3時間とは、あのVOLVOであの早朝の時間帯でという意味のようだ。普通は4時間かかるとも、手元のガイドブックには5時間と書いてある。その間出会ったバイクは1台のみ。
11+aleppo.jpg 13+aleppo.jpg
12+aleppo.jpg 14+aleppo.jpg
 

Hamaを越しモレックに入る。木が多く土地も肥えている豊かな土地だ。石切り場のようなものが増え、時計を見ると8時40分、ハンシビルだ。この辺でいい加減陥落、時差のせいもあってかどうにもたまらなく眠たくなる。ところが数分でICARDAについてしまった。すごい、四方道路しかない砂漠の真ん中に突如現れた研究所、という感じだ。よくもこんなところに建てたものだ。住宅街の中にたたずむ日本の某研究所とはあまりに違う。

16+aleppo.jpg 17+aleppo.jpg

感心しているうちにICARDAの職員 Zukaに会う。今までメールでやりとりしており、宿泊先のアレンジはじめ何から何までお世話になってきた人だ。底抜けに明るくテキパキしている細身の中年の女性で、「どんなことでも問題があったら何でもいってね?」とあけすけに話す。

シリアの思い出(1)


4月から気になっていたシリア情勢だが、とうとう8月には日本人ジャーナリスト山本美香さんが巻き込まれ不慮に死をとげられた。同年代であり、さそがし無念だったことだろう。これまでのお仕事と信念に敬意を表し、ご冥福をお祈り申し上げる。

シリアにとっても、とても残念な出来事だ。日本人からは、山本さんの犠牲とセットで記憶される国となってしまったのだから。



私がシリアを訪れたのは2006年11月のことだった。名目は出張。シリア北部のアレッポにICARDAという研究所がある。ICARDAとは要は、半乾燥地域の農業&農村開発の研究所、とでもいおうか。なるほどだからシリアにあるのか、シリアだからこそと納得のいく研究分野である。そこで開催されたあるプロジェクトの会議に、上司の代理出席で参加することになっていた。参加を打診された時は私で務まるのかという思いもあったが、ICARDAの名前は聞いていたし、かねてから興味のあったCGIARの研究所ということもあり、二つ返事で引き受けた。そして何より未知の地域、初めての中東。これまでみたもの違う文化や人々に遭遇するかもしれないという期待と、知らない世界に向かう一抹の不安を抱き、旅立った。シリア滞在中は何かと強烈な思い出が多い。当時に記録を基に旅日記を掘り起こして書いてみようと思う。

CGIAR: the Consultative Group on International Agricultural Research
ICARDA (International Center for Agricultural Research in the Dry Areas、イカルダ)はCGIARの15研究所のひとつ



シリア行きを前になぜか無性に怖かったことを覚えている。未知の世界を前に正体不明の恐怖心にどこか支配されていた、とでもいおうか。言葉(アラビア語、フランス語)は知らない、文化も知らない、地域や土地勘もない、のないないづくしの状態だった。知らないことは怖いこと。

ルートとしては日本からはドバイ経由が便利なのだが、ドバイ経由の便が満席だったためにパリ経由となった。パリ到着が夜6時くらいで空港近くのホテルで一泊、翌日午前中の便でパリから空路4時間かけてシリアの首都ダマスカスに向かうルートだ。よって日本からはパリまで行き、少し戻る格好になる。機内で隣席にいたアフリカ人(確かガンビア出身とかいっていた)の男性が、これからシリアに向かうと聞いて驚いていた。それもそのはず。その年の7月にイスラエルがレバノンを攻撃し、11月はまだ地域一帯に緊張が走っていた。シリアはレバノンの隣国である。

個人的には最初の問題はパリ着が夜6時だったこと。空港近くのホテルibisに泊まることにしていたが、そこまで車なしに行ける距離ではない。まだうす明るいとはいえ日は落ちている。日本のように安全とは言えないだろう。かといってどの程度、危ないのかもわからず。結局、用心するに越したことはない。件のアフリカ人が、ホテルにはこの道を使っていった方がいいと空港の端まで一緒に来て教えてくれたことまでは覚えているが、その先、シャトルバスを利用したかタクシーだったか覚えていない。

ところでホテルの部屋のベッドに、ZEN という案内があった。15分で満足、という。
その時は気に留めなかったが、今こうしてみてみると YOGA の間違いじゃないか、と思えてくる。
1+ibis+zen.jpg 1+ibis+zen+(2).jpg

翌日、パリからダマスへ行く機内は別世界だった。空港のダマスカス行きゲート付近では当然のように飛び交うフランス語。見る限り、日本人どころか中国、韓国、東南アジアも含めてアジア人の姿は皆無だった。この光景はある種の軽いショックだった。それまでアジアに行くことが多く、どこに行っても中国はじめアジアの同胞をみつけるのは何の努力もいらなかった。そういう中で一見する間もなく東洋人の私、機内でも「フランス語話しますか?」と隣席の女性に話しかけられる。急に異邦人の自分を認識し、遠い世界に向かっている現実に気づかされる。地球は狭くなったというけれど、まだまだ未知の世界はたくさんある。それが嬉しくもあり時として怖くもある。

夕方4時頃、ダマスカス到着。ここでは迎えの人が来てくれて安堵する。アレッポはトルコに近く、さらに北に5時間ほど車で走らなければならないので、その日はダマスカスにある研究所のゲストハウスに一泊する。その日は泥のように眠った。

ゲストハウスの居間
2+guesthouse_20120907013514.jpg
プロフィール

Sainah

Author:Sainah
仕事&興味:途上国と開発援助 [セクター] 農業・自然環境・生態系
少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき

カレンダー
08 | 2012/09 | 10
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
最新記事
カテゴリ
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

Twitter
FC2ブログランキング
カチッ♪クリックしていただけると  はげみになります ↓

FC2Blog Ranking

天気予報

-天気予報コム- -FC2-
月別アーカイブ
リンク
カテゴリ
RSSリンクの表示
検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター