求む、復刻版

この度、改めて、この3冊を読み返してみた。いずれも十分に読み応えある本であることはこれまで当ブログでも書いてきた通りだが、それぞれメッセージ性、テーマがあるとすればこうなるだろうか。
『サイゴンから来た妻と娘』 ――ベトナム人の価値観
『バンコクの妻と娘』 ――言葉、文化的無国籍
『パリへ行った妻と娘』 ――女性の生き方、仕事に対するベトナム人の価値観

1980年代の出版でありながら今なお、読む人に問いかけ、訴えかけ、胸を打つ内容になっているのは、妻と娘に対する筆者の愛情もさることながら、どこか距離を置いたまなざし、バランス感覚、そして筆致のなせる業であろう。この本はベトナムはもちろんのこと東南アジアで生活する人はぜひ読んでほしい、と思っていたところ、知人がベトナム赴任となった。そこでこの本をプレゼントしようと思ったが、何せ1980年代の本である。書店で探してみたところ、『サイゴンから来た妻と娘』は書店でも(オンラインでも)置かれていたが、残り2冊は絶版のようだった。何軒目か探しようやく大きなブックオフで見つかった『バンコクの妻と娘』を買い求め、とりあえずこの2冊でベトナム行きの知人には事足りるかもしれない。しかし近藤ファンとしては、妻と娘シリーズは『パリへ行った妻と娘』まで読んで初めて完結する。ぜひとも、バンコクとパリの復刻版を期待したい。

ちなみに、私は彼の本はほぼすべて買っている。近藤ワールドに再び引き込まれる前に、それまで読んでいた読みかけの本に戻ろうと内心もがいている。

私なりのこだわり


(少し間があいてしまいましたが、ここ数回は近藤紘一氏の『サイゴンから来た妻と娘』に始まる3冊の本について書いてきました。)



一時の留学を除けばずっと日本の教育を受け、帰国子女でもないのに私自身、ここまで近藤さんの本に引き込まれ、ユンをめぐる無国籍人間にならないための教育や言語をめぐる著者の奮闘ぶりに共感したのはなぜだろうか。

まずは、ここまで娘の将来に思いを馳せ頭を悩ます父親の心境や思考を、読んだことがなかったからだと思う。東京のリセの校長からの手紙は、著者の思いを凝縮しており、まさに圧巻である。世のどんな父親でも自分の娘の将来を考え応援する気持ちは持ち合わせているだろうが、ここまで具体的かつ、ある意味、海外で生きる/国際結婚の家庭の親子にとって普遍的な問題としても訴えかける内容になっている。また、私自身ベトナムで過ごした2001年のひと夏の印象があまりに強烈だったことに加え、仕事で使う言語に考える時期と重なったことがもう一つの理由ではないかと思う。



私は最初、自然科学の教育を受けた。学生時代、指導教官には論文は英語でないと存在しないに等しい、と叩きこまれた。サイエンスの世界にいたから至極もっともな話ではあるのだが、1990年代当時は大学院の修論、博論はもとより、いわゆる学術論文も日本語で書く「研究者」が少なからずいた時代である。その指導教官は米国の大学から戻ってきたばかりの先生だったこともあり、最初から学生へは「論文書かずば研究者ではない。英語で書かずば論文ではない」の持論を展開し、学生にもそう教え込んでいった。その結果、我々は修論から英語で書かされたし、目指すは学術雑誌に受理される(英語の)論文であり、学位申請用にまとめる日本語の博士論文ではない、と教え込まれた。だからであろう。私自身のみならず同じ研究室の学生は、「研究者とは論文を書くのが仕事であり、論文は英語で書かれるもの」と刷り込まれていた。

後に、国際協力の世界に転じてから、日本では、どうも研究者だからといってみな英語で文章を書くわけではないと理解するのに時間はかからなかった。それどころか、日本語で、しかも小難しい、ややもするとわかりにくい日本語も飛び交っていた(たまたまその時は社会学の話もあったからかもしれないが)。そういう日本語に違和感を覚えたし、だからといってサイエンスの世界ではほとんど日本語で長文を書くことはないから、日本語の文章力を鍛える必要も感じた。結果、日本語と英語をどう磨いていくかが、個人的な課題となっていた。

それでいて、書き言葉だけならまだしも、日本語と英語ではプレゼンテーションの仕方も、主張の展開の仕方されも違ってくる。となれば、日本で教育を受けた研究者はどうすればいいのか。いまのようにインターネットにも普及しておらず初期の時代、限られた情報源の中で英語で生きるべきか、日本語で生きつつ、仕事の時だけ英語脳に切り替えることも求められるのか、なぜ日本人に生まれたんだとまで考えたこともあった。

結局至った結論は、ずっと後になってのことであるが、木下先生の「言葉のスウィッチ・ヒッターであれ」である。知らない理系学生はいないほどの『理科系の作文技術』の著者でもある物理学者が、後年書かれた別の本にあった「言葉のスウィッチヒッターであれ」――これがもっとも腑に落ち、以来、私の指針となっている気がする。

ここでいう言語のスウィッチヒッターとは、「欧米式の言語習慣が優先する場では、客観的かつ論理的に明快に話す。それは日本人の従来の言語を忘れることではなく、日本人同士の私的なコミュニケーションでは伝統的な言語習慣を大切にする」人のこと。機に応じて右でも左でも打てる打者になれ、という教えだった。

<過去ブログ>
スウィッチ・ヒッター
スウィッチヒッターふたたび
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フレンドシップ・ブック


(承前)もう一か所は、東京リセ校長の問いかけに呼応した形で、出てくる「フレンドシップ・ブック」の個所である。

(ここから引用)

たちどまって考えると、問題はまだ何一つ片付いていない。(中略)
「文化的帰属」の問題もいまだ明確な基礎固めができていない。東京の校長の手紙にあった、「人間は一国の文化を理解したときに、はじめて、他国の文化を理解し、同時にこの世の中を理解できるようになる」
という言葉は、ものを見る目の「基礎」がどこにあるか、という問題の核心を、重く、冷徹に衝いているように思える。

(中略)

娘は、現在のバンコクの暮らしが、「仮りの住まい」であることを十分に心得ている。しかし、友人が増えるにつれ、この土地への密着度も、明らかに深まりつつある。(中略)

「ほら、もうこんなにお友達ができたぜ」
新しい仲間の写真や、友情の言葉をおさめた分厚い「フレンドシップ・ブック」を見せられるたびに、私はむしろ、心の痛みを感じる。フレンドシップ・ブックは、形成期に各国を渡り歩く運命を背負った子供たちの多くが決まって作成する“宝物”だ。単に年頃の子が切手やマッチ箱のコレクションに対して示す性向と同質の“趣味”なのかもしれない。

だが、潜在的にせよ、フレンドシップ・ブックの中に友情を収集しようとする心理の背後には、結局のところ、それらの友人とのある日の別れが不可避のものであることへの、それなりの認識が働いているように思える。必要とあればいつなんどきでも訪れ会い、話し合えるような「一生の友人」が相手なら、何もその写真や親愛の情を示す言葉をノートの凍結しておこうなどという心の動きは生まれまい。
花模様の分厚い表紙のノートに貼られた何十枚もの仲間の写真、それに添えられた、書体もインクの色もまちまちな、つたない文章に目を通しながら、私は、ここでも思いに沈む。

(中略)

一冊のノートは、多数の友情を記録として保存する。だが、記録として凍結された時点から、すでにその友情は、生命を失いはじめる。そして。容赦のない時と距離の力の前でしだいに単なる「思い出」と風化していく――。(中略)
このフレンドシップ・ブックの中の何人が、いったい彼女の財産として残るだろう、と考えた。

(引用ここまで)

『バンコクの妻と娘』では著者の近藤紘一氏が若くして死別した前妻のことが書かれている。いわゆる帰国子女でありながら、文化的無国籍感覚に悩み、孤独や無力感の壁にぶつかった経緯に触れている。この前妻の軌跡を、ミーユンの将来に重ねて考えずおれなかった、と述べられている。そして、哀しさとともにミーユンの父親が近藤氏でよかったのだと、静かに共感できる部分でもある。



文化的無国籍とフレンドシップ・ブックは、『バンコクの妻と娘』の中で大変印象に残った個所であり、また重い問いかけでもある。これについては本書を読んでいただくのがベストだが、近藤氏の言葉をまずはそのまま引用させていただいた。

古い本ながら今でもまったく色あせることない本を書き続けながら、こうした人生の問いに立ち向かった著者に、心からの敬意を払わずにはいられない。

思考の道具


それにしても、私は一読者の身で、どうしてこれほどまでにユンちゃんのことが気になるのだろうか。それは、まさに、「娘がこのまま一つの言語をものにせず思考の道具と持たないことによって文化的無国籍になってよいものか」と訴える著者である近藤さんの思いが、どこか自分の心の琴線に響いてしまったに違いない。ひとつには言葉の大切さを痛感し、自分でも悩んでいた時期に読んだこともあっただろう。また、それだけに、これはユンちゃん個人の問題ではなく、だれにでも起こりうることであり、将来、自分の子どもに起こったらどう対処すればいいのか、とまで拡大解釈しながら読んだこともあった。



『バンコクの妻と娘』では、この文化的無国籍に係る部分が2か所出てくる。最初の箇所は、ユンが通う東京のリセの校長から著者に届いた手紙のシーンだ。

東京のリセに通っていたユンは当時、17歳だった。そこで父親のバンコク赴任の話が出た時、強固に希望しひとり東京に残ったのだが、いざ寄宿舎で生活しながらにリセに通い、たくさんの宿題を手土産に週末は知人の家を渡り歩くという生活を送っていた。慣れたとはいえ外国での独り暮らしと勉学、そして進路を決定しなければならないとなれば、それなりに精神的にきつい面もあっただろう。その場で親身に相談に乗ってくれる親が身近におらず、時間差のある手紙でのやりとりでは、様々な出来事や悩みが消化不良に終わったとておかしくない。本書でも、東京から手紙がしきりにきたとの様子が描かれている。インターネットもスカイプもある今とは、東京―バンコクの距離感は比較する術もない。

ある年の夏休み前、東京のリセの校長からも著者に手紙が届いた。落第通知だったが、それに加えて本論ともいうべきメッセージが書かれていた。印象に残る部分なのでできるだけ引用しよう。

あくまで参考意見とお受け取りになって差し支えありませんが、との前置きに続く本論は、「私の心の中にいつも腰を据え、時にはそれを直視して考え込み、時には直視することを意識的に避け、あるいは少なくとも先に引き延ばそうとしてきた想いや逡巡に真っ向から触れ、かつそれを代弁するものであった。」と著者は書き出している。

(以下『バンコクの妻と娘』より引用)
 ミーユンは、教育及び人間形成上きわめて特殊な環境にある、と、校長は書いていた。
 親の勤務により各国を転々としなければならない宿命を背負った子供は、少なくない。しかし、ミーユンの場合は、日本へ来るとほぼ同時に、事実上祖国を失いうという異常事態に見舞われた。まず、このことが、本人の将来にどう響くかを念頭に、こんごのことを考えていかなければならない。
 人間にとって祖国を失うということは、「心の家庭」を失うにひとしい。幼ななじみ、古い遊び仲間、兄弟姉妹や従兄兄弟、親戚の叔父叔母や近所の顔なじみにいたるまで、彼女がその中に包まれてきたすべての人間世界が、煙のように消滅した。
 父親であるあなたが、日本に長く居を定められる職病にあり、あなた自身の家庭や親戚が、この、彼女から奪い去られた世界の代替として徐々に新たな人間関係を彼女に与えてやることができたなら、まだ多少の埋め合わせはついたかもしれない。事情はよく知らないが、五年近くの観察を通じて、ミーユンはこの代替の世界を得るチャンスがなかったように見受けられる。

 つまり、彼女にとって、何事か生じたさい、その懐ろに飛び込んで泣ける相手は、こんごもこの世にあなたと母親の二人だけしかいない。こうした境遇は、一見、めずらしくないことのようにみえるが、実はきわめて異常だといわなければならない。私の目から見ると、ミーユンの両親に対する思慕は非常に強く、それは何よりも、彼女を包む通常の人間世界がないからではないか、と思える。失礼ないい方になるかもしれないが、そうした彼女をあなたたちは今、さらに深い孤独と緊張の境遇に投げ込んでいる。私としては、本人の明るく素直な一面に期待を託してはいるが、半面、彼女の脆弱なまでの感受性の鋭さが、こんごの性格形成にどう作用していくか、少なからぬ不安感も抱かずにはいられない。
 これは、教育者としてより、むしろ、あなた同様、人の親でもある私個人の感想である。

 教育者としての意見を述べさせていただくと、ミーユンにとって何よりも大切なことは、一つの文化を見る目を備えさえることだと考える。率直に申し上げて彼女には、今、何の文化的基礎もない。彼女がときおり示す、驚くべき幼稚さもそこから来ている。
 文化を知るということは、思考をするということであり、思考のための必須の道具は、いうまでもなく言葉である。

 ミーユンは日常会話には、もうそれほど不自由しないようだ。
 しかし、一枚めくると、彼女は実は、何の言語も持っていない。
十三歳で中断したベトナム語は、おとなの思考の道具となり得ていない。一方、日本に来てからのフランス語の進歩は、顕著なものがあるが、なんといってもスタートが遅すぎた。
 あなたも含めて私たちの急務は、なんとかして彼女に一個の完全な言語を持たせてやることだと思う。そうしないと、下手をすると思考のない、というより、思考することができない――人間が出来上がってしまいかねない。一個の言語を完全に身にそなえたときはじめて、一国の文化を理解できる。そして一国の文化を理解したとき、はじめて、他国の文化やこの社会全体を見つめ、それについて思考することができる――のだと考える。(引用ここまで)
 
 
この後、「そこで、今、思い切ってあなたに助言をさせていただきたい。」と具体的な助言に続く。

近藤氏は述べている。
「一見、官僚じみたあの小柄な老校長が、これほど鋭く、温かい目で娘を見つめ、的確に彼女の内面を掌握し、ここまで真剣にその将来を考えていてくれたのかと思うと、父親としての怠惰さと決断を先へ引き延ばしていた勇気のなさが恥ずかしかった」

確かに、ユンちゃんは特殊な状況だとは言える。ただし、思考の道具となる言葉の問題は、バイリンガル教育や小学校での英語導入化等を持ち出すまでもなく、英語と日本語の間で苦しむ我々日本人にとってもひとしく突き付けられた問いのように、思えたのだった。近藤氏の本を最初に読んだのは10年以上前のことであるが、日本における日本人の外国語教育の問題は今でもなんら状況は変わっていない、そんな気がする。

ユンちゃんその後


JAL機内誌スカイワード8月号(2012年)によると、「ユンちゃん」は50歳になっていた。パリに渡って最初は職業学校を終え、シャルル・ドゴール空港内の通関会社に勤務し、日本や韓国向けの輸出業務に携わっていた。その後、子育てを終えて復職、パートタイムで働いている。ピエールと結婚し、ひとり息子にはジュリアン・コウイチと父親の名前を与えている。「ベトナムは私の祖国。でも、当時は戦争でしたから日本へ行くのはうれしいことだった。」と話している。

また、『バンコクの妻と娘』にもたびたび出てくる、ユンの言語をめぐる近藤さんの叫びにも近い悩みは読者の心を捉えて離さない。居を定めず転々とする新聞記者稼業ゆえに、ユンも思春期をベトナム、東京、バンコクで過ごすことになる。言語はベトナム、日本、フランス語のどれも中途半端の状態だったようだ。妻ナウさんに至っては、「ゆっくり腰を落ち着ける国が決まったら、そこの国の言葉を覚えるから、それまでは脳みそを節約しなくては」と話していたほどだ。妻は買い物程度の会話ならできるし、いざとなればユンや夫の助けも得られるが、十代のユンにとってこれから生きる言語を決めることは人生の方向性の選択にもつながる。
こういう背景で、近藤さんが「戦争で祖国を失ったユンではあるが、ユンを無国籍人間にしてはいけない、ユンに思考の道具となる言葉を、核となる言語を習得させなければならない」と苦悩する場面が出てくる。また、厳しかった母親と相違して、良き相談相手でもあり、また何かにつけ「気楽に行こうぜ」と背中をしてくれた近藤さん―ユンはお父さん子だったと想像するに難くない。ユンはフランス語を選ぶ。

母となったユンは語る。
「お父さんと国について話したことはありません。でも、お父さんの心配はわかっていました。お父さんは私にフランス語を勉強しろと言うのです。人格を形成するための言語はフランス語がいいんだと言いました。そこで、私はそのとおりにやっていました。今、私はフランスに暮らし、フランス語で考えます。主人はフランス人です。でも、私は自分の国はと問われたら、フランスとは言いません。日本と言います。国籍も日本人のままですから。また、ベトナムは祖国ですけれど、もう私の国ではありません。

人間にとって、私の国とはそこに住んで暮らしていて心地よい国のことではないでしょうか。私はいま日本に暮らしていないけれど、時々、帰って日本を満喫しますし、いつも日本のことが頭をよぎります。私の息子コウイチはサイゴンにも東京にも行ったことがありますが、どっちが好きと聞いたら、東京と答えます。

私はお父さんの本を読んだことはありません。日本語もわかりますから、読もうと思えば読めます。でも、お父さんを思い出してしまうから、一生、読むことはないでしょう。日本にはいいつか帰りたいです。友だちもいますから。ベトナムへは旅行することはあるでしょうけれど、住みたいとは思いません。最後まで暮らすのならば日本です
」(JAL機内誌スカイワード8月号より)

ユンちゃんについて


ユンの母であり近藤さんの妻となるナウさんはベトナム魂の塊のような女性らしい。8才で家の手伝いでものを売り始め、娘ユンの年頃(13、4歳~20歳)にはすでに、野菜や魚の仲買いをしたり、トラックを雇って運送業を手掛けたり、大衆食堂や一杯飲み屋を開いたりと、「母親譲りの商才」を発揮していたらしい。南ベトナムで戦乱の世に育ったとはいえ、十代の一番いい時期を、自分と家族のために能力だけを頼りに生きてきたことになる。戦火の中自力で生き抜いていくには他人に依存せず生きていく逞しさ、賢さ、度胸、そして時に喧嘩もいとわない激しさが必要だった。そうした育ちの環境のせいか、自立していない女の子(ここでは娘ユンのこと)など、考えられないことだと書かれている。それだけに母ナウさんはたくましくも厳しく、娘ユンにも容赦しなかった。その、徹底したしつけと母親の威厳も3部作のところどころで出てきては、「日本の母親、もっとしっかりせい!」とナウさんに言われているようで、読みながら頭をうなだれるのみ。

近藤氏とともに東京に連れて来られた時、ユンは13歳。東京にリセ(フランスの教育システムをとる中・高校)に転入し、フランス語での教育が始まる。数年後には近藤さんのバンコク赴任に伴い、東京での独り暮らし(リセの寮生活)が始まるが、その間のことは『バンコクの妻と娘』に詳しい。その後、ユンは、東京での生活を楽しみながら学業では努力を重ねたようだが進級できなかった。

その時に、リセの校長からバンコクの両親に手紙が届く。曰く、「ミーユンに取って何よりも大切なことは、一つの文化を見る目を備えさせることだと考える。率直に申し上げて彼女には、今、何の文化的基礎もない。(中略)文化を知るということは、思考をするということであり、思考のための必須の道具は、言うまでもなく言葉である。」 
こうして「思考の道具となる言語をもつこと」というリセの校長の親身な助言が、ユンの親である近藤氏に向けられる。東京のリセよりバンコクのリセに転校したが、バンコクのリセ閉鎖に伴い、フランスに渡る。そこまでの様子が、『バンコクの妻と娘』『パリへ行った妻と娘』に書かれている。特に、『パリへ行った妻と娘』では、ユンの進路選びを軸に、タイのリゾート地で知り合ったフランス人家庭(ルロワ家)、ユンがパリのルロワ家にお世話になるいきさつ、ルロワ家の息子ピエールとユンの行く末を案じる両親の思いが描かれている。父親の近藤さんは「ままごとのなのか、それとも真物なのか」判断しかねると案じていた二人だったが、『パリへ行った妻と娘』のあとかぎで、二人は結婚に向けた準備をしていると読んだ時は、読者は一様にほっとしたことだろう。それでも、結婚は近藤さんの喪が明けるまで結婚してはいけないとの母親の厳命により、2年待ってのことだった。この3部作を通して読者は、ユンちゃんの成長過程と悩み、葛藤、もがく姿を追いながら、それぞれに笑い涙した。

そのユンちゃんだが、昨年、JAL機内誌でユンちゃんについて読む機会があった。近藤紘一の足跡をたどる連載「美しい昔 近藤紘一が愛したアジア」の最終回だった。近藤紘一氏は胃がんのため1986年に45歳の若さで他界している。
(続)

ベトナムで思い出す本


ベトナムと聞いて必ず思い出すのが、『サイゴンから来た妻と娘』である。この本には、著者の日本人男性がサイゴン赴任中にベトナム人の妻子を得たことによる生活上の驚きと変化、発見や観察が余すところなく描かれている。作品の中で繰り広げられる家族のやりとりや出来事を通して様々な問題が炙りだされ、時にその問題は読者にも突き付けられる―それはベトナムと日本を軸とした比較文化論だったり教育論だったり、祖国を失ったベトナム人の信条や生き様だったり、はたまた著者の若いころの日本やフランスでの生活で直面した出来事の余波だったり。この多面性こそが読者をぐいぐい引き込み、本書を読ませる作品に仕立てあげている。

著者の近藤紘一さんはサンケイ新聞記者として、ベトナム戦争時にサイゴンにおり、ベトナム人の生活と共にサイゴン陥落、南ベトナムの終焉を目撃した。常日頃から「オレは人間を描く」を口ぐせだったらしい。それだけに視点もベトナム社会に対してまっすぐ向けられ、ベトナム人の価値感、宗教観など庶民の考えや下町の様子などを紹介したことで、普通の海外旅行記や海外生活の記録とは一味もふた味も違った切り口になっている。もちろんこれは身内にベトナム人の妻子がおり、物語のどの部分も妻子の行動を軸に展開しているからだが、それだけではない。そこに近藤さんの記者としての観察眼、日本人としての視点、過去への思いが重なり、時にホロリとしながら読ませ、可笑しくも哀しさの残るしっとりした味わい深い作品になっている。

登場人物のユンこと近藤ミーユンちゃんは、近藤さんに会った時はまだ10代はじめの少女だった。『サイゴンから来た妻と娘』は、新しい家族との絆と娘ユンの成長の記録でもあるが、何より近藤さん流の家族愛の表現でもあったと思う。『バンコクの妻と娘』『パリへ行った妻と娘』をあわせた3部作には、一貫して近藤さん流のユーモアあふれる筆致で、妻と娘の新しい生活への適応、ベトナム人魂、生きる力、日本人の世界観が、余すところなく記されており、いずれも大変印象に残る作品である。
『サイゴンから来た妻と娘』
『バンコクの妻と娘』
『パリへ行った妻と娘』
3部作としてまとめて読むとさらに楽しめるので、ぜひおススメしたい。

近藤さんは新聞記者だったから、もちろんニュースを追う記者の仕事が中心だったろうが、私はこの本を入り口に次々と彼の本を読んだこともあり、もの書きとしての近藤紘一氏しか知らない。ただ、それでも、これだけ読ませる書き手である近藤紘一氏なら、署名入りの記事を随分書いたのではないかと思う。また、同じく今は亡きジャーナリストの千葉敦子さんの著書にも、近藤紘一氏の訃報を聞いて入院していたことを聞きながら見舞いに行かなかったことを悔やむくだりがあった。二人は、戦後の昭和という同時代を駆け抜けた記者仲間だったに違いない。

ハノイ散策


ベトナムに来るのは3回目。

最初に来たのは2001年5月。
ハノイの国際機関でインターンをした。当時、夏休みのインターンシップやフィールド調査を義務付けられており、最初は父の住んでいたホーチミンでインターンをして宿代を浮かせようと目論んだが当てが外れてハノイになった顛末がある。インターンをしながら、ハノイから、サパ、フエ、ファンティエット、ホーチミンまで訪れた道中も懐かしい。当時はまだ、電車、飛行機、美術館など観光地にやたら「外国人料金」が課されており、いろいろと面白いことがあった。とても刺激的な経験をしたひと夏だったが、これについてはまだ別途書いてみたい。

2回目は2009年8月。ハロン湾での国際会議のためにハノイとハロン湾を訪れた。

3回目が今回のハノイとなる。

2009年と今回ではそれほど大きな変化は感じなかったが、2001年のハノイを思い出すにつけ隔世の感を深くする。一番の大きな変化は車だ。2001年の通りはバイクであふれており、車を見ることは珍しかった。公共のバスも中古の日本のバスをよくみかけた(京都市バスや高知のバスが走っていた)。それが今はハンダイの新しいバスが走っており、トヨタやスズキ、韓国車はもとよりベンツが通りを走っている。2009年に来た時、10年前に比べてハノイのホテル代が3倍になったと聞いたが、十分理解できるような街の発展ぶりだった。通り沿いにはきれいなビルやお店が増えていた。

また、英語が通じるようになったのも大きい。2001年は買い物一つするにも苦労した。スーパーも国営のスーパーがあったが住んでいたゲストハウスから遠かったので、近くのお店でせっけん一つ買うのに英語が通じなかった。それが今ではちょっとしたお店でもなんとか通じるようになった。

スーパーの中はこんなに野菜がラッピングされて売られている。これもちょっと驚きだった。ドリアン(右写真)はさすがにラッピングされていなかったが。
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私はアジアではどの国でも市場に行くのが好きなのだが、今回は会議の予定でまったくいけなかった。せめてもと旧市街を歩きまわったのだが、雨季になったからだろうかわからにが、通りで売られている野菜をみることはなかった。たまにチキンや魚介類はこうやって市内でも(市場まで行かなくても)売られていた。
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また、車が増えたからだろうか、こういう女性も目立って減ったように思う(↑)。

街全体がきれいになってしまうと、空気のようにあふれていたベトナムの活気やダイナミズムが感じられなくなるようでさみしい。

ホアンキエムのそばの鞄屋さん。お店というより、木のそばに陣取って木の幹に所狭しとかばんをかけて売っている。こういう光景がベトナムらしくてなんとも楽しく好きだ。
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ホアンキエム湖の夕方。夕方から夜にかけて、ホアンキエム周辺と市内の広場にはあふれんばかりの人があふれる。夕涼みと仕事を終えた後の家族や恋人との時間なのだろう。
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ハノイで食べる


今回はほとんどホテルに缶詰めだったので、ローカルフードや通りのB級グルメを楽しむことはできず残念だったが、それでも夕方になっていそいそと旧市街に繰り出した。旧市街は、地図にも載っているように、通りごとに同じお店がある程度集中ている(シルクの通り、絵画の通り、おもちゃの通り、靴の通り等など)。

またベトナムは、オシャレや雑貨のほかに美食で知られる国である。毎日のように食べたフォーと春巻きは、ベトナムの家庭料理でもあるという。フォーは米麺のため消化も良く、朝食に出されるし、春巻きは夜に家庭で食べるとか。
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もう一軒、雷魚と野菜の麺料理一品を出しているお店があると教わりいてみたのがここ(14 Cha Ca)。
日本の油麺に近いといえばいいだろうか。小皿に米麺と思しき白い麺をとりその上に雷魚、香草野菜、ピーナツ、たれ(春巻きのたれと似ている)をかけて食べるもの。
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ちなみに、私はバインセオというお好み焼き風料理が大好きなのだが、ハノイのお店ではなかなかみつからなかった。どうも南の料理らしい。

4日目には前職で一緒だった友達と再会。ベトナム人である彼女は夫と二人で日本に7年ほど住んでおり、日本で生まれた息子二人を連れて2008年にハノイに戻った。久しぶりに会う彼女は何だかきれいになっていた。きっと満たされているのだろう。ハノイでの仕事と生活、子育てを満喫している感じで私までうれしくなった。

私はハノイビール、友達はサイゴンビールで乾杯。
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ハノイ出張


ベトナムはハノイに来て3日目の朝を迎えています。湿気もほどよく花曇りの日が続いています。

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月曜は朝一番で都内の会議。いったん帰宅し荷造りを仕上げ急ぎ成田へ。そんな調子なので気づけば機上の人に。やっと休めると一息つく。

今回は会議出張だったので荷づくりも楽で助かった。直前に送られてきたプログラムでは4日目に予定されていた私のプレゼンだが、2日目の11時にできないか、と打診のメモをホテルに着くや受け取った。快諾(?)しつつに内心はPPT見直さないと気持ちが切り替わり、慌てて部屋でプレゼンを見直す(やはり機内でビデオなど見ている場合ではなかった・・・)。

翌日の昨日、挨拶もそこそこに主催者から「11時と言わず最初のセッションで話せる?2番目とかどう?」と言われる。それを聞きつけた、ハノイに先に来ていた同僚曰く、「国際会議の進行って結構テキトーですね」。まあ、こんなもの、と思っていると「どうしてそんなに落ち着いているんですか?」とたたみかける。落ち着いているわけでもないのだが、いざとなると開き直ってしまう性質なのだ。今回もそう。こうなればもう、開き直りつつ頑張る、という松井さんのツイートを思い出していた。

それでもプレゼンは割とうまくいった。日ごろ、やたらロジックを重視する(何かと手厳しいコメントを出す)同僚に何を言われるかと思ったら、聞いていて本当に I'm proud of you と思えましたよ~、と嬉しいお言葉。

さ~、あとは4年ぶりのハノイを楽しみたいところ。
プロフィール

Sainah

Author:Sainah
仕事&興味:途上国と開発援助 [セクター] 農業・自然環境・生態系
少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき

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