holy week


フィリピンはholy weekに入った今週。イースター休暇ということもあり今日もしくは月曜から休みを取る人が多いようです。

木曜、金曜はホテルも休みになり(滞在はできるが掃除やレストラン等のサービスは全部とまる)、モールもしまります。そして渋滞。ただでさえ悪名高いマニラの渋滞は unpredictable (予測不能)なうえに最近 はgetting worse (日増しに悪くなる)と言われています。こうした休みシーズンは渋滞に拍車がかかります。

フィリピン人は家族に会いに故郷に帰るか旅行に出てしまい、マニラに住む外国人は一気に国内外に旅行に行くか、遊びに来る家族をもてなす場合だけマニラに残るようです。だいたい小さい子どもや赤ちゃんのいる家庭は移動が大変なので残るパターン。移動可能な場合は早目にメトロマニラを脱出。ということで、holy weekにマニラにいても仕方がないので私もメトロマニラを飛び出すことにしました。空港につくとこれまたすごい列。日本のお盆のようなものでしょうか。

それにしてもフィリピン人の買い物と旅行好きはすごいと思います。一時期、香港やフランスでブランド品を買いあさっていた日本人の再来、とでも言いましょうか。いやそれ以上ではないでしょうか。モールにも Ebdless shopping の垂れ幕が。ものをひたすら減らそうとしている私にとっては、訴えるものがあまりありません。ちなみに成田空港では、日本はEndless discoveries と謳っています。

日本も最近は人気の旅行先。近いし今は桜シーズンということもあり、近年はフィリピン人の観光ビザのバードルが下がったらしく、日本に行った(それも何回も)という話を聞きます。行き先を聞くと、大阪が多く、次いで東京、京都、名古屋が多いようです。
「日本の食べ物、おいしいね。たこ焼き、お好み焼きいいね~」
「シャンプーの椿、あれを買い込んだ」
などと話しています。それでも白い恋人のクッキーを知っている人にはまだ会っていません。

周囲のフィリピン人を見ていると、妙に人生を楽しんでいるように思います。私も気楽にがんばります。

忘れ得ぬ人々(1)

マニラに来る前にひたすら自宅の本をむさぼり頁をめくっていた。すると学生時代に愛読していた神谷美恵子さんの本で、ふと次のくだりが目に留まった。
「人生は思いがけない出会いやことのはずみに満ちみちている。そういうものは次第に人の歩みをある方向へ導いて、打ち込むことがみつかる人もある。
 けっきょく、私たちにできることは、何か呼び声がきこえたときに、それにすぐ応じることができるように、耳をすましながら、自分を用意して行くことだけだろう。」
 (神谷美恵子『人間をみつめて』より

好むと好まざるとひたすら遍歴を歩いていた、というより歩くしかなかった私に対して、有難いことに遠巻きに温かい眼差しを向けて、必要な時にしっかりと手を差し伸べてくださった方々がいる。多くの方にお力添えをいただいたが、忘れられない方々がいる。自分の人生でこの方たちとの出会いや助力なくして今はありえない。その中でも今日は特に二人の方について触れたいと思う。不思議なものでお二人とも「ことのはずみ」で出会った人生の先輩であり、思いがけない出会いの賜物だった。

まずはこのブログでも何度か登場しているM先生。私にとって人生のメンターでもあり、何とも特別な存在である。研究畑出身の先生は国際協力の仕事を、文字通り世界を股にかけて国際現場で進めて来られた方。ご自身の経験と情熱に裏打ちされた物事を見抜く観察眼と言葉は、時にずしんと響く。また今となっては必然でもあったようにさえ思える先生との出会いは2007年にさかのぼる。シンポジウムでお話ししたことがきっかけで、以来、何かある時や忘れた頃にふとやってくる先生とのお話やコミュニケーションの再開。いつもその度に、驚くほど私の考えや悩みを理解してくださり、適切なタイミングで叱咤激励いただいた。今回のマニラ行きも予期せぬ急な話だったが、たいへん喜び祝福して送りだしてくださった。
(→ 関連ブログ記事)
Connecting the dots
偶然とはいえ
スイッチON
M先生の提言

そしてEさん。3月に入りいただいたメールに、「2000年初頭からこの分野に入って経験を積んでいったことが実りましたね。」とあり、胸が熱くなった。Eさんは学生時代の春休みの米国旅行中に知り会った日本人女性。旅の途中でお世話になったホームステイ先のお父さんが先生をしていたメディカルスクールの学生として紹介された方がEさんだった。その後は米国で専門的な仕事を展開されている。人生の先輩としていつも前を走っている心強い存在である。と同時に、普通の日本人からすればひと味もふた味も異なるものの観方や考え方を提示されるので、彼女の言葉にどれだけ開眼し教えられ励まされたことか。2000年以来、私のつたない歩みを節目ごとにみてこられたEさんにはいつも親身のアドバイスや応援をいただき、冒頭のメール文につながっている。

お二人にとって、私は面倒を見るべき弟子でも世話を焼く後輩でもない。たまたまご縁があってある日会ってしまっただけなのに、気にかけていただき手を差し伸べていただいた。プロとして尊敬するのみならず人間的にもあたたかいお二人には、見守りながらも絶妙なタイミングで応援と奮起を促していただいた。何とも不器用で成長の遅い私としては感謝してもしきれない。この先どこかで何らかの形で恩返しができればと切に願っている。

マイノリティであること


毎日いろいろなことが起こるが、新しい環境での仕事や家探しに追われひとつひとつ書き留めておく余裕がまだない。それでも、これだけはと今のうちに書いておかなくてはならないことがある。それは、ここに至るまでに受けた応援と支えていただいた方々への感謝の気持ち。

お世話になった方には、「悩ましい選択でしたが、これでよかったと思えるよう覚悟にかえて頑張ってまいります」と、決意表明のごとき文面のメールを出していた。マニラに来る選択は決して易しいものではなく苦渋の決断だったので、おのずと心情の吐露になったのだろうしあたかも自らに言い聞かせていたかのようだ。



まだ職業人生も半ば(のつもり)だがこれまで本当に多くの方にお世話になった。もともと一研究員としてラボで実験をする仕事をしていた私が、2000年に仕事を、それも分野ごと変えようとしたことから、けもの道が始まった。今思えば、かなりの向こうみずだった。良くも悪くも世の中に疎かったので景気とか社会の情勢とかを考えることなく、行きたい道を目指して突き進んでしまった。とはいえ一介の研究者が、しかも別の分野で容易に仕事がみつかるほど世の中甘くはない。明らかに英語力も足りなかった。そこで専門性の基盤確立と英語力強化のためにまず米国の大学院に留学し、マレーシアでフィールド調査の真似事をしたりベトナムでインターンをしたりして国際協力の世界へ入った。ちなみに米国留学中はこれまた大変にお世話になった二人の方がおられるのだが、これはまた別の機会に書きたいと思う。

違う道へ踏み出し国際協力の世界に来た、まではいい(本でいえばまだ第一章)。入ることは誰でもできる。問題はどのような形で仕事に就くかだ。専門職なのか、職員や契約職員なのか、ボランティアやインターンから始めるのか。また国際協力といっても分野とレベルは様々だ。この傾向は今も続き、多様化は進んでいると思うが核となる専門が必要なことには変わりない。個人の選択として、それなりに専門にこだわるか、専門に近いところでがんばるか、多少の幅を広げるか、不本意な分野でも正職員を選ぶか(そもそも正職員になれるのか)、どこまで妥協できるか、そして何より継続的に仕事ができるか、などなど悩ましくどうみても先が見えない状況だった。また、国際協力の仕事は地域性(アジア、アフリカ、中南米、中東)もある。ちなみに私の分野は自然資源管理・農業(アグロフォレストリ)、地域はアジア―そういえるのもようやく最近になってのこと。走りだした頃は自然資源管理の仕事を目指しつつも暗中模索だった。

自然科学から国際協力へ。30代になって大胆にも方向転換をしたことになる。分野替えや年齢制限もあってか、日本での仕事探しは容易ではなかった。日本社会ではなかなか仕事が見つからないとなると、自ずと海外での仕事や海外との仕事にも目が向く。これは国際協力ということもさることながら、元研究者としては自然なことだったとは思う。そうこうするうちに数年、しかし日本の組織も海外の組織も考えつつ、その両方でポストを探しながら応募し続けることは案外しんどいもの。転職経験者にはご理解いただけると思うが、仕事をする傍らで応募書類の作成から面接、時にプレゼン資料作成までをこなすには精神的にも体力的にもエネルギーを要する。しかも、ひとたび道を外れた人間に日本社会は優しくない。学生時代の専攻(生物)から環境(自然資源管理)の分野に移った理由をこれまで何度、日本人(おしなべて男性)から訝し気に尋ねられたことだろう。卒業後10年以上経ってもなお続くこの問いに対して、そのうち自分の中で確たるストーリーができ上がってきたのは幸いだった。ところかわればダブルメジャーとか学際的経験と海外の機関から評価されたこととは対照的だった。とはいえ海外の組織だって厳しい。日本人というより応募者の一人としてみられるから業務遂行力や研究能力をはかる点では徹底しており、容赦ない。双方の共通項といえば、いわゆる人脈やネットワークがものを言う場合があるということ。正職員にならない限り、任期と次のポストへの応募はつきもの。先が見えないから、歩み続けながらも期限やゴールをどこに設定すればいいのか、また家庭の事情の変化や人生の岐路での対応といった問題も出てくる。遠く先に見える一寸の光をあてに出口のないトンネルを千鳥足で歩き続ける小動物―それが私だった。

中学時代に端を発し、その後も一度や二度のみならず何かとマイノリティである自分を痛感することが多かった。その一例は、学生時代の同級生や先輩はバブル世代で就職しており、また理系だったこともあり転職している人は少なかったこと。翻って、国際協力の仕事についてからというものどの職場でも同期もいない私は、自然と世代や国を超えて同様の悩みを抱える人や国際協力の仕事をする人が友人や仲間となった。だからだろうか、国際協力の世界に入ってからできた友人は自分より一回り前後若い人が圧倒的に多い。また人の年齢が気にならない、同僚でも言われない限りほとんど当人の年齢を知らないできた。いろいろな年代の友人と付き合ってきたことだけは今になってよかったとつくづく思う。

創作料理?


マニラに来て3週間目に入りました。今はホテル滞在なので、近くのモールでいろいろなものを試しに食べてみています。今日は初めて、えらく混んでいることもありいかにも怪しげな日本の料理のお店に入ってみました。

創作料理と呼ぶには物足りないほど、あれこれと日本の料理を大胆にアレンジして出しているこのお店。フィリピン人受けするのが店内は満席。

まずは豆腐サラダを注文したところきたのがこれ。
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丸く見える白いものが豆腐だが、何だがサラダとも豆腐とも違う気がするがとにかく食べてみると不思議な味。サラダを食べた気がしないがまあいいか。

次に出てきたのがウナギ巻きというものとみそ汁。
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日本を出て最初に食べた味噌汁だがこれはわりと美味しかった。普通の味でよかった。よくあるのが、ダシの味などなんのその、味付けがしょっぱいとかこれはなかろう~という味付けの濃い「日本」料理だが、この味噌汁はそれほどでもなかった。

最初は出されたスプーンで味噌汁を食べていた(と言いたくなるほど具が多かった)が、食べにくいので「ええい、私は日本人なんだ~」とお箸で普通に食べてしまう。気のせいか、「あの人、日本人だよね?」といいだけな視線を感じてしまう。私にはすぐさまお茶が出てくるし(ほかの人は冷たい水)、お茶をおかわりしているし(ほかのお客はジュースで、熱いお茶のお替りなどしていない)、注文している料理も天ぷらや独創的などんぶりやうどんが多く、私の豆腐料理など不人気のメニューなのか誰も頼んでいないようだ。

それにしてもラーメンブームなのか、マニラ市内だけでもラーメン店は数軒あるし、日本のお店もちらほら―天や、さぼてん、吉野家、サンマルクカフェなど。でも今恋しいのは普通の駄菓子類やせんべい、カルディのお菓子や日本のカップラーメンの類、そしてサラダなどの野菜類。はやく普通の生活に落ち着きたいところ。
プロフィール

Sainah

Author:Sainah
仕事&興味:途上国と開発援助 [セクター] 農業・自然環境・生態系
少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき

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