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著者の木下先生は、『理科系の作文技術』でも知られる物理学者である。先日久しぶりにこの本も読んでみた。書かれたのは1981年とあるがどうしてどうして、30年経った今も、その内容は色褪せていないどころか十分通じる。文章を書く人なら、とくに研究関係の書き手なら、立ち戻っては反省しかみしめるべき点が随所に出てくる。個人的にも読み直しのはずなのに、そう感じさせない新鮮さもある。たとえば、
・なまの情報や自分自身の考えに重点をおくべき。たとえ、不備であり未熟であっても、
オリジナリティーという無比の強さを活かさない手はない。
・パラグラフ、トピックセンテンスの重要性
・いかに、日本的教養や日本的感性が骨の髄までしみこんでいるまごうかたなき日本人であれ、
明確な主張をしはっきり言い切る心得が、論文を書く時は要求されるし、そうするべきである。
・プレゼン原稿の準備、読むのではなく話す。
おそらく、この新鮮かつインパクトが大きいのは、
本質的なことを、経験に基づいて、きちんとした言葉で適切に表現されている
からだろう。
そして、「スウィッチ・ヒッター」の源流ともなる考えが、この『理科系の作文技術』にもすでに随所に散りばめられている。おそらく著者もずっと頭にあって、しかし考えを昇華させ表現するには、時間と別の機会が必要だったのだろう。言葉に厳しい方だっただけに。

私は、自分は日本人のなかでは、西欧的な考え方、感じ方を比較的よく解するほうで、時と場合によっては彼らと共通の足場で考え、感じることもできる―と信じている。しかし、論文を書くときに「ほかの可能性もあるのに、それを斟酌せずに自分の考えを断定的に述べる」ことにはいつも強い抵抗を感じる。(中略)これは私のなかの日本的教養が抵抗するので、性根において私がまごうかたなく日本人であり、日本的感性を骨まで刻みこまれていることの証拠であろう。
(中略)
わたし自身の心情がいま告白したとおりなのだが、理性的な判断として私は、日本人は平均して自分の考えをもっと明確に言い切らなければならぬと考える。世の中には、ことに実務の面では、はっきりものを言わなければならない場面がたくさんある。そういうときに相手をおもんばかって敢えて自分の考えを明言せぬ言語習慣が、私たちの社会の風通しをわるくしている。また、科学(自然科学とかぎらず社会科学でも人文科学でも)は冷たく澄んだ世界で、そこではとことんまで突きつめた明確な表現が必要なのだが、私たちはとかく表現をぼかし、断言を避けて問題をあいまいにし、論争を不徹底にしてしまいがちである。
私は、むきつけな言い方を避けて相手が察してくれることを期待する日本語のもの言いの美しさを愛する。そういう言い方を、これから育つ人たちにも大切にしてもらいと思う。しかし、本書の対象である理科系の仕事の文書は、がんらい心情的要素を含まず、政治的考慮とも無縁でもっぱら明快を旨とすべきものである。そこでは記述はあくまで正確であり、意見はできるかぎり明確かつ具体的であらねばならぬ。
ここで「明晰でない言葉はフランス語ではない」という言葉があるが、「はっきりした表現は
日本語ではない」といえる、というドナルド・キーンの言葉も紹介し、的を得ていると指摘しつつも
私たちは、理科系の仕事の文書に関する限り、<日本語でない>日本語、明確な日本語を使うことにしようではないか。真正面から<はっきり言い切る>ことにしようではないか。

やや長くなるが引用してみたのは、あまりに共感できるくだりだったからだ。
ややもすると、論議を二分して白黒はっきりさせたり、日本のやり方や言語文化を全否定し外に迎合したりする「専門家」が散見される。そのようななか、このように科学者でかつ言葉を大切にしてきた先生の見方は、本質的であり極めて重要であり学ぶところが多い。おそらく、『理科系の作文技術』も文章を書く際の、あるいは研究者の古典になるのではないか。あるいはもうなっているだろう。