和歌山 Day2 ~ 南方熊楠
二日目の朝、南方熊楠記念館を訪れた。
南方熊楠について、粘菌の研究者でNatureに投稿した最初の日本人、という以外ほとんど何も知らなかった。今回とても驚き、感動した。ということで、同じ日に二回となるが改めて書いておきたい。
まず、和歌山の田辺の出身で1867年生まれ、子どもの頃から大変な読書好きと記憶力の持ち主だったという。友だちの家にあった『和漢三才図会』を片っ端から読んでは記憶し、帰宅して書き写していたというから、その記憶力のよさが伺える。その記録も展示してあったが、とても記憶できるような代物ではない。並はずれた記憶力の持ち主に違いない。
その後がまたすごい。東京大学予備門に入り、夏目漱石や正岡子規と同級で、後の首相となる高橋是清に英語の授業を受けたというから、どれだけの秀才でエリートまっしぐらの道を歩むのかと思いきや、自分の野外調査と標本採集(いまで言うフィールド調査?)に明け暮れた挙句に落第し退学。故郷の田辺に戻る。
そこで終わらないのがまた彼のすごいところ。あの時代に父親を説得し、海外遊学に出てしまうのだ。米国にわたり、まずサンフランシスコの商業学校へ行き失望(そりゃそうだろう)、東へ進みミシガン州ランシングに行き州立農業大学で学ぶ。またそこで独りフィールドに励み退学となる。そこでフロリダ、南米へと足を延ばし、ひたすらフィールド調査に勤しむ。そうこうするうちに、Natureに「東洋の星座」なる記事を投稿するようになり、大英博物館やロンドン大学の先生に見出されるようになる。魅力的な人柄ゆえに要所要所でいろいろな人と知り合い、英国にいた時に紹介された中国の孫文とも親交を結んだという。
当時の英国で、学位をもっていないどころか大学も出ておらず、私費(と想像)で遊学を続ける南方の精神力、タフさは文句なく素晴らしい。持ち前の記憶力が生きて語学が堪能だったとかで、アルバイトでラブレターの代筆をしていた話も痛快だ。一時は、大英博物館の正館員として就職の道もあったのだが、自由が損なわれることを極度に恐れてその話を辞退した、という。その後、職がなくなり和歌山に戻り、田辺を拠点に彼の知的生活は続く。その生産性は、むしろとどまるところを知らなかったようである。生態学者としてのみならず、民俗学、宗教学などその専門性は幅広く、民俗学者の柳田国男との手紙のやりとりも続いた。今でいう、学際分野とでもいうのだろうか、まるで日本のダ・ビンチだ。
田辺のそばにある神島の開発を憂い、神島の保全を訴えたのも南方熊楠だ。また昭和天皇の南紀行幸の際には案内役をつとめ、その縁もあってだろう、のちに神島は史蹟名勝天然記念物に指定されたという。記念館の上にあがると、その神島をはじめ素晴らしい眺望がひらける。おしもおされぬ生態学者というだけでなく、どこにいても変わることなく知的生活を営む知の巨人の生き様に、こういう人が明治大正の時代に和歌山にいたのかと、ただただ圧倒された。そして感動した。