カレンとのおしゃべり シリアの思い出(8)


今までのすき間を埋めるかのように、遺跡を回りながらあれこれおしゃべりに花が咲く。

「ねえ、Sainahは卒業式の後、すぐに日本に帰ったの?」
卒業式は2002年の初夏だった。今回カレント会ったのはその2002年以来ということになる。
「引越しの荷物を出したあと卒業式に来てくれた家族と旅行してね。卒業式の後、5月末からボストンやワシントンDCを少し回ってそのまま一緒に帰国した。」
「そういえば、旅行に出るって言っていたわよね。」

カレンが卒業式後の学校の様子を教えてくれた。
「卒業式の後、急にみんないなくなって何だか寂しかったわ。私はあの後、夏の間はアメリカでインターンをしてね。その後ベイルートに戻ったんだけれど、ボーイフレンドがいたから半年後にまだ戻ってきたの。そして大学で1年働いた。L先生覚えている?彼の下でリサーチをする予定が、外国人だとビザの関係で難しくてね。彼はそこまで研究費が潤沢ではなかったから、ビザの手当てまでカバーできないと言われ、結局それができるA先生のところで働くことになったの。ベッキーって覚えているしょう?彼女と二人で、ドクターの学生二人の手伝いをしたの。そりゃもう退屈だったわよ」
「退屈?A先生の仕事を手伝ったんでしょう?」
A先生といえば、ユーモアと人間味あふれるフレンドリーな先生だった。機会があれば一度働いてみたかったと思うような先生だ。でも確かに放任主義な気もする。

「リサーチといってもね、木のbdhを測定し、決まった式に入れて計算する作業が延々と続くの。最初は覚えることもあったし物珍しさもあったけれど、一度すればあとはその繰り返し。1年もすると誰だっていい加減いやになっちゃうわよ。しかもその間、米国でいいポストがあればとずっと仕事を探していたのよ。でもだめだった。私はこれでも一応いい成績で米国の大学院を出たのに、私の何がだめなの?と選考の結果を聞かされた時に聞き返したこともあったのよ。そうしたら何といわれたと思う?外国人はビザやら何やら余計な負担がかかるから、なんですって。絶対 September 11th の影響よ。どれだけのCVを出したことか。もうほとほとアメリカに嫌気が差してね。そんな頃、レバノンが無性に恋しくなったの、そうしたらもう速かったわ。あっという間に荷物をまとめて帰国しちゃった」

そうだ、私たちが米国にいた頃、ニューヨークのテロ爆撃があったのだ。もしかしたら、彼女がレバノン人であることも無関係ではあるまい。カレンは決して自慢するタイプではないが、どんなに自信を持っても当たり前と誰もが納得するほど、文句なく優秀なのだ。

「カレン、あなたは頭もいいし何ヶ国語も話せるから、どこでも働けると思っていた。だから今回だってレバノンにはいないんじゃないか、と半信半疑に思いながらメールしたのよ」
「でもね、レバノンが恋しくなったの。学校でのアメリカ人クラスメート、覚えている?何かこう打ち解けなくなかった?パーティーばかりしているけれど、結局アメリカ人だけで固まっていて想像以上に閉鎖的だと思ったわ。米国はずっといる場所ではないと思った」
これは意外だった。カレンはベイルートのアメリカン大学を出ていたから、日本の環境から米国に行った私と違って英語にもアメリカ人気質にも何不自由なく慣れており、何の苦労もなかったのだと思っていた。

「ううん、ベイルートのアメリカン大学は教育のシステムがアメリカ式というだけで、学生はみんなレバノン人だもの。全然違ったわ。留学中思ったのは、アメリカ人のつきあいはあまりに表面的皮相的すぎること。だからとてもついていけなかったし、私の友達はみな留学生だったわ。シマ、シトラリ、セザール。あ、Hatsyは例外ね。もう人生の先輩だし母親みたいなものだもの。Hatsyは骨折したりして私たちと一緒に卒業できなかったでしょ。あの後2年近くかけて卒業したのよ。Hatsy によくからかわれたものよ。カレンの国は砂漠のど真ん中にあるって。砂漠じゃないわよ乾燥地よ、と言い返したことを思い出すわ。Hatsyてホント愉快よねぇ」

Hatsy とはお茶目な中年女性だった。同級生だったが成人した双子の娘に孫もおり、私の家系は双子が多いも、と言っていた。当時1人でいたが、やはり経済力があるのか、学校近くにアパートを購入していた。「借りるなんてつまらないわよ。自分の物にすれば自分で使えるし、卒業後も人に貸せるでしょ」と言い放っていた。彼女の場合、怪我で卒業に時間がかかったことを考えると賢い選択だったと言わざるを得ない。おそらく年齢的には自分の母より若いだろうが、おそらく苦労の数ははるかに多いと思わせる風貌だった。ただ、気持ちは周囲の若い学生よりはるかに若かった。最後に会ったのは卒業式後のお別れパーティーで、真っ赤なドレスを着ていたが、あの何とも愛嬌のある笑顔が懐かしく思いだされた。

などなど、同級生や思い出話に花が咲いた。



カレンは、アラビア語、英語のほかにドイツ語、フランス語を操る才女だった。語学の才能もさることながら、彼女は当時20代前半で学年でも最年少の大学院生ながらとにかく成績優秀だった。お母さんがドイツ人ということもあり、おそらく卒業後もレバノンには帰らないのだろう、そんなふうに勝手に思っていた。なのにレバノンに戻っていた。

「レバノンに帰ってきて仕事を探すのは難しくなかった?ここの就職事情ってどうなの?まあ、あなたならすぐみつかったでしょうけど」
「それがそうなのよ。周囲は職探しを大変がっていたけれど、友達に環境関係のコンサルを探していると言ったら、空きポストがあると教えてくれてね。それが環境省のコンサルだったのよ。運がよかったのよね。そこに採用されて1年ほど働いたわ。そこではUNDPをはじめUN関係のプロジェクトの仕事をしてね。その後今の会社に移ったの。今の仕事はね、応募してもうんともすんとも言ってこなかったの。だから私、直接オフィスに出向いて言ったの。『ハ~イ、私、先日○○のポストに応募したカレンです。もっと私のことを知っていただきたく伺いました』ってね」
「そういうやり方はいかにもアメリカらしいよね。レバノンではそういうやり方ってよくあるの?」
「それが全然。まずないと言っていいわね。ところが雇い主だった私の上司はドイツ人でね。アメリカで教育を受けたこともあるから、私のそういうアプローチやドイツ語ができることも含めて気に入ってくれたらしいの。レバノンでこういう訪問を受けたのは初めてだと言われ、とんとん拍子で採用されちゃった」

いかにもカレンらしい。それでも驚かないほど彼女は優秀だ。成績だけでなく、とにかく機転が利き頭の切れがいいのだ。
「私ね、米国と欧州のMBAに今応募しているの。英国は1年コースなの」
「欧州ってオランダとかではなく、英国なの?」
「だって英語で授業受けたいもの。ほかの言葉ではわからないから」
カレンは確か学部卒業後すぐに大学院に来た珍しい口だった。私たちがいた大学院は、アカデミックでないプロフェッショナルスクールということもあり、学卒でストレートに来る人は非常に少なかった。ということは、まだ20代だろう。MBAを考えるもの不思議ではない。

「MBAをとろうと思うのもね、キャリアシフトを考えているの。環境だけじゃだめだって。ファイナンスを専攻して、国際機関で働くことも考えているの。やっぱりレバノンでの収入って高が知れているのよね。将来家族を持った時、お金で苦労したくないってやっぱり思ってしまうのよ」
せっかくこういう場所にいるのに、ICARDAなんかは興味ないらしい。ドイツ人を母に持ち、ベイルートの由緒あるアメリカン大学を出ているカレン、世界を知ってしまっているカレンの血が騒ぐのだろう。といいつつ、結局カレンはフランスのMBAに進んだ。どこでもやっていける彼女のことだから、将来が楽しみだ。

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プロフィール

Sainah

Author:Sainah
仕事&興味:途上国と開発援助 [セクター] 農業・自然環境・生態系
少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき

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