ハンセン病と社会

夏日和だった先週末、遠路はるばる出かけた。池袋から電車とバスを乗り継ぐこと1時間弱。乗り慣れない路線ゆえ(ほとんど初めて)、急行やら快速やら種類が妙に多く、いったいどれに乗れば一番早く着くのかもわからない。行き先は国立ハンセン病資料館。東村山市清瀬にある多磨全生園の一角に位置している。あまりにきれいでモダンな建物だった。トイレの伝統が感知式になっているのも、フランスのla minuterieではないか。聞けば、2年前にリニューアルしたらしい。

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ハンセン病はらい菌に感染することで起こる病気(*1)。手足の末梢神経が麻痺し、皮膚に変化が起こるだけでなく、手足や顔の一部がただれて後遺症が残ることも多かった。病気が進むと失明することもあったが、何せ原因不明の病気ゆえ、恐ろしい遺伝病として迷信が社会に広まっていった。ある時まで、らいと聞けばなぜかインドがすぐに思い起こされたが、実は同様の状況は日本でも、江戸・明治時代には起きていたのだ。その後、明治政府により患者の強制隔離を目的に作られた「らい予防法」の下に、患者はひとたび発病すると、療養所へ送り込まることとなった。たとえ自宅療養していても警察や市町村の職員に見つけられ、療養所入所を余儀なくされた。しかも患者の多くは、家族への迷惑を考え入所以降、ずっと偽名を名乗り続ける人が多かったという。

入所当初、いつか病気が治ったら、との淡い期待を抱いていた患者だが、やがてその日は永遠に来ないことを悟るようになり、希望を持たないことを学ぶようになった。また療養所は、交通の便の悪い山奥や離島にあることが多く、療養所に入ることはそのまま、そこで一生を送ることを示唆していた。そもそも、治癒しなければ島や療養所からは出られない、たとえ治癒しても家族にも会えないどころか故郷にも戻れない患者にとって、療養所で生きるしか道はなかったのだ。だから、この資料館の示す証は、そのまま患者の受けた社会的苦しみとともに、生を求め続けた精神的葛藤の歴史でもある。いくつか挙げてみよう。

 他人のことだから「業病」などといえるのだ。希望はあるのかと聞く者がいたら、とんだ道化者と言うしか
 ない。どんななぐさめもへつらいや皮肉の意味しかもたなかった。(資料館の展示資料、『無菌地帯』より)


 今はだから私には夢がない。自分の生きがいのある人生がほしい。生きているということを自分自身で
 味わってみたい。(資料館の展示資料より)


これは、10代の少女の言葉だ。まだ青春の真っ盛りに発病、バレリーナになる夢を抱いていた女学生の、あきらめに近い悲痛な叫びは、胸が痛む。実際、療養所に学校ができたほど患者の中には子どもも少なからず送り込まれてきたという。

 生き抜いた証
 患者たちは、治療に微かな望みを託しながらも、軽快と悪化を繰り返す経過に翻弄されるうち、多くは
 もとの健康をあきらめてしまいます。しかし、彼らはいかに苦しい状況の中でも生きることをあきらめず、
 様々な活動の中に自分の位置づけをもとめてゆきました。それが生き抜いた証として、療養所の
 生活改善や文化活動、あるいは社会的自立への取組みへの結実していきました。(資料館の展示資料より)



ときが経つにつれ、全国の療養所で閉ざされた環境におかれた患者を中心に、文化活動が盛んになっていった。このひとつが音楽団結成だった。音楽団を結成し、活動を続けることで、生きがいを見出した患者の一人はこう語る。
「あの頃は、みんな心が枯れていた」
ひとは、どんな境遇におかれても、生き抜いた証、生きがいを求めるのだろう。

ここで余談になるが、「生きがい」という言葉について私が最初に読んだのは、神谷美恵子さんの著書(*2)だったことに触れておきたい。神谷さんは学生時代に多磨全生園に訪れ、らい医学への貢献を目指すようになる。紆余曲折を経て後年、精神科医として岡山の長島愛生園に勤務する一方、大学で教鞭をとっていたようだ。私は彼女の本を学生時代に初めて手にとって以来、何度、紐解いたか知れない。読む度にいろいろな発見があったが、彼女の著書の根底に一貫して流れていたのは、らい患者への思いと共感、そして生きがいへの問いであった。おそらくこの問いは、結核にかかり死を意識して過ごしたご自身の、若かりし日々にも起因していたというくだりが、随所に書かれていた。

閑話休題。

社会の偏見や差別を助長したといわれているらい予防法だが、廃止されたのは1996年のことだった。私はなぜかこのニュース報道を覚えている。というのも、らい予防法がまだ現存していたことに驚いた、鮮明な記憶があるからだ。明治以来のらい予防法が平成になってようやく廃止され、患者の強制隔離もなくなり、社会との接点も出てきた。それでも、患者が「取り戻せないもの」は何だったか―これを挙げておこう。

取り戻せないもの (資料館の展示資料より)
1. 社会との共生
2. 家族との絆
3. 人生の選択肢
4. 入所前の生活


ところで、ハンセン病資料館を見終えて、あることを思い出した。摘発されたかのごとく療養所に入所させられた患者が次にとった行動は、名前を変える、身を隠すといった家族へかかる迷惑を考えてのことだった、という事実に関連してである。
私は個人主義のみを至上とするものでは決してない。しかし、日本社会では、個人がもっと尊重されてもいいのではないかと思えたことは一再ではない。例えば、ある個人が、たとえ賞をもらってもあるいは犯罪をおかしても、日本では等しく、それもかなりの確率でその家族が引き合いに出される。この点が私には、昔からどうしても理解できないことのひとつである。場合によっては、家族や周囲の話を入れた方が感動的だったり効果的になるのかもしれないが、必ずしもそうではない場合も多い。ときにプライバシーや節度など皆無であるかのようにマスコミや社会が追いかける姿勢も、そしてそれを許してしまう社会も、決して健全とはいえない。第一、私に言わせればそこまでする必要があるのかと思うケースがほとんどだ。家族がどうであれ、本質的には、その人の行動の意味づけ(ここでいえば賞の価値や罪の重み)が変わるわけではない。その意味では、日本にもっと個の考えや個性の尊重が根付いてもいい。飛躍を承知で言えば、子どもや若い世代にだけ「個」や「個性」を求めるのもフェアではない気がする。


*1 ハンセン病
かつては「らい病」と呼ばれていたが、1873年にらい菌を発見したノルウェーの医師・ハンセン氏の名前をとって現在は、ハンセン病と呼ばれている。らい菌は組織培養ができないほど弱い。ここでは流れによって、敢えてらい病と書いた箇所もある。

*2 学生時代に初めて買い求めた著作集で、何とも懐かしい。久しぶりにまた、読みたくなった。

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プロフィール

Sainah

Author:Sainah
仕事&興味:途上国と開発援助 [セクター] 農業・自然環境・生態系
少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき

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