ウェブ時代をゆく (2)


昨日のつづきで、『ウェブ時代をゆく』について。

正しい場所に正しい時にいる in the right place at the right time
実は一番しびれたのがこれ。こんな平易なことばながら、このくだりを目にした時は、目が釘付けになり、何かが揺さぶられる思いだった。

これに関して、著者のいいたいことが集約されている箇所を、難しいが選んでみたい。
同時代の最先端を走り、歴史の変わり目の時期に、その歴史を書き換える可能性のある現場に主役として参加できるチャンスは滅多にない。生まれる時代がずれれば、そもそもそういう人生にはめぐり合わない。生まれる時代が正しくても、違う場所にいれば、革命的変化が起きていることさえ知らずに一生を終える。(『ウェブ時代をゆく』22-23頁)

そしてこうも言い切る。
人生のすべてがこの言葉にあるとまで思う。(同114頁)

さらに、男性より女性のほうが自然に「けものみち」を歩いていけるかもしれない、とさらりと書いている。ここに私は少しだけ注目したい。言われてみれば、その通りだと思った。なぜか。
概して、今まで日本の女性には、決まった人生のレールがあるようであまりなかった。その証拠に、ロールモデルが少ないのに、生き方に目に見えない枠や限りだけがどこかあった。幸運にも、好きなことを仕事にできたにしても、実際、どこまではみ出していいのか、わからない(そもそも、そんなことをしていいのかもわからない)。だから、働くことを前提にしてもせずとも、道なき道を手探りで進むしかなかった。ところが、一皮むいてみるとその実、男性に比べて人生の幅や自由度が高いようだった。時代の影響もあったのだろうし、ほかにも理由は多々ある。ともかく、働き方はもとより、働く目的も、家庭の形態も、しいては生き方自体が多様化しているために、もう千差万別にならざるを得なかったのだ。終身雇用制が崩れつつある今、男女の別なくその波が押し寄せている気さえする。

「最近の日本人女性は、実にたくましいですね~」
ここ数年、海外に出るとよく聞く言葉である。別に私のことを指して言っているのではなく、本当に日本人女性を総称して、いろいろな形で活躍している様々な例を見聞きしてきた男性の口から、思わずもれ出てくる実感のようだ。このセリフも、数年前はnon-Japaneseの男性によく言われたのだが、2年ほど前から、半ば感心し半ば苦笑まじりに日本人男性からも聞くようになった。しかも、それをつぶやくのは、判で押したように中年以降の男性に多い。日本人だと圧倒的に年輩の男性ばかりだ。昔を知っているだけに、よくもわるくも世代間ギャップを感じているのかもしれない。逆に、30代の日本人男性の口からはまず聞かない。女性の活躍はそれほど珍しいことではない、くらいに認識しているのだろうか。いちど聞いてみたいものだ。
いずれにせよ、「最近の日本女性はたくましいですね~」に対して、たくましくならざるを得なかったのだ、というのが私の思いだ。

ロールモデル思考法
著者は、ここから書き始めたというほど、この本の肝がこのロールモデル思考法である。ロールモデルと探すとはよく聞くが、ここで言っているのは特定のひとりのロールモデルを追い求める姿勢ではない。ロールモデルを選び続けること、しかも複数。その中から、生き方や時間の使い方、生活など部分的に参考になる部分、惹かれた理由を分析し、自分の好きを具象化する手法とでもいおうか。ロールモデルにみられる要素を、言葉は悪いが適度につまみ食いして、腑に落ちたものだけを自分に取り入れて活用する、みたいな感じかもしれない。生き方を追求したり悩んだりしている人々がおそらく無意識にしてきたことを、見事に言語化してくれたこのアイディアに、思わず膝をたたいてしまった。さらに著者曰く、
「行動に結び付けてこそのロールモデル思考法」であり、「ロールモデル思考法は長期戦」を要する。

生きるために水を飲むような読書
多くは語らないけれど、表現自体にしびれた。こんな思いは、かつてどこかで「切れば血のでるような文章」という表現をみて以来の感覚だ。

雨の日に自転車に乗る
この表現にも唸った。そして手をたたいて思った。
時代の変わり目を生きるには、変化を前にしたときに古い価値観に縛られないことが大切だ。その時、どんな変化も、「荒海に飛び込む」ようなものではなく、むしろ「雨の日に自転車に乗る」くらいのことだ、と指摘する。そうだ、今まで何であれ思いきって挑戦したときも、振り返ればそんなものだった!

調べてみると、著者はこの本を書くにあたり、本来の仕事をセーブし全力で書き上げたとあり、少し安心した。仕事のすきま時間で書いたとしたらもう、こちらのほうが倒れそうになる(笑)。


20代の頃は、おぼろげながらだが、もっと枯れた文章を書きたいと思っていた。今はちょっと違う。私もぜひ、本書のような文章を書いてみたい。そう思う。

一応、私は彼より若いので、いつかお会いしてみたいと思った。ただ、シリコンバレーにも将棋にも疎いのであまり共通した話題がないかもしれない。そこでまずは、数年後の続編をお待ちしすることにしたい。



ウェブ時代をゆく (1)


とうとうやってきた。梅田望夫著『ウェブ時代をゆく』について書く時が。
『ウェブ進化論』に続いて、『ウェブ時代をゆく』を読んだのは春先のこと。『ウェブ進化論』も今までにない本だったが、『ウェブ時代をゆく』は、読みはじめから私の古典となることを直感した、久々の本である。こんな人生の指南書が今まであっただろうか。読み終わってからも手元に置いては、何度となくすきますきまに開いたりもした、稀有の書である。

おそらくこの本は反響も大きく、すでにいろいろと書かれているようだ。そういう意味では遅ればせながらではあるが、私個人の記録として、この本の中で、個人的にヒットしたことばをとりあげてみよう(本書の中で繰り返しでてくるので、ページ掲載は割愛)。

一生にして二生を経る
最初のページから惹きつけられたのは、福沢諭吉を引用してのこのことば。数年前、ある人から、「生きてこなかった自分」というユングのことばとともに、「一度の人生、二粒おいしい」という考え方を教わった。以来、心のモットーでもある「一度の人生、二粒おいしい」に重なるのがこの、一生にして二生を経る生き方だ。欲張った人生でもいいんだよ、わがまま言っていいんだよ、と後ろから語りかけられているような気がした。

「群集の叡智」元年
あたかも社会学用語のような、あるいは特定の場面でのみ使われるような、そんなことばの意味を肌で実感する機会はそうあるものではない。ここでの「群集の叡智」は、まさにそんなことばとして登場している。著者はここで、ネット上の混沌が整理され、個の脳が連結して顕在化していくものを、群集の叡智と呼んでいる。選りすぐりの知をもっているはずの大学の先生より、ややもすると、個人によるネットによる発信が活発に始まっている。それが今の(少なくともこの本が書かれた2007年の)日本なのだ。その背景として、著者はこう書いている。

世の中には、「これまでは言葉を発してこなかった」面白い人たちがたくさんいる。(『ウェブ時代をゆく』16頁)
人がひとり真剣に生きているというのは、それだけでたいへんなことなのである。(同17頁)

このような思いを抱く人が、目に見えないだけでおそらく世の中にはかなりたくさん埋もれているのだと実感する。当たり前のことながら言葉にされないできた、こんな表現が飛び込んできたら、心に響かないわけがない。

けものみち
本書では、早くから自分の「好き」をみつけた人が疾走していく「高速道路」に相対することばとして、「けものみち」が登場する。私もこの「けものみち」をみたとき、この本のキーワードのひとつだと直感し、ぐいぐい引かれていった(それもそのはず、高速道路とは無縁だった自分のことにつなげて考えていたからだろう)。高速道路もけものみちも、同じく、好きを貫く道ではあるが、けものみちは、お手本や決められたレールとは無縁のものだ。その時に待っている道に道標はない。だからラクではないが、個人の才覚や工夫、対人能力、あとはちょっとした勇気があれば、いくらでも切り拓いていける道だ。しかも、高速道路とはまた異なる発見や苦労、醍醐味、達成感や寄り道、ハプニングがあり、それはそれでまた、世の中を面白くしているのではないだろうか。この本がユニークなのは、けものみちを正面から取り上げただけでなく、高速道路からいったん降りてけものみちへ入る可能性を視野に入れている点だと思う。

今の時代でも、いや今の時代だからこそ、好きを貫く人生もあることを、その先に待ち行くものも含めて、「けものみち」ということばはピシャリと言い当てている。これはまた、いかにも日本らしい、ひととの比較や世間の目を気にする姿勢とは対極にある生き方でもあり、まさにこれからのあるべき生き方を力強く提示している。これは、とくに日本の若い世代には励みになる概念だろう。好きな仕事に取り組めるのは、何も、芸術家や伝記の登場人物といった一部の天才だけではない。こんな当たり前のことが、今まで大人の口から語られないできたのだから。

「けものみち」はやる気のあるすべてのひとに開かれた道ある。しかし日本では、組織に依存せずに「けものみち」を歩く自由な生き方の在りようが、まだきちんと言語化されていない。(同105頁)

「好きを貫いて生きていけるほど、世の中、甘いもんじゃない」と古い世代は思わず言いたくなるかもしれない。(略)このあたりに世代間の根深い断絶がある。本書では「好きを貫く」新しい生き方と、現実社会と折り合いをつけて「飯を食う」ことを両立させるにはどうしたらよいかについても真剣に考えたい。(同29頁)

混沌として面白い時代
そして、こういう時代を生きるための心構えをさらっと述べている。
・ この大変化の時代を恐れるのではなく、楽しむ心を持つこと
・ 個の可能性を拡大し、個を開放するネット世界で生きるには、所属に埋没しない個の精神的自立が求められる。
・ 未来は創造するもの
・ 変化に適応しやすいのは組織より個であり、自助の精神で対処することで、脅威はチャンスに変わる。

ここまででまだ序章なので、序盤ですっかりこの本にはまってしまった、といえる(笑)。





小躍り

はるか昔の高校時代(授業中 ^^;)に読んだ本の多くは忘れてしまったが、今でもはっきり覚えている本が数冊ある。その1冊が、藤原正彦氏の『若き数学者のアメリカ』だった。

私は科学者の書いた本や科学に関する本が好きでよく読んだものだが、数学者の本はあまり興味がもてなかった。それだけに、どちらかというと「ついでに」読みかけたはずのこの本を一気に読み終えた時は感動し、素直に面白いと思った。なぜ、感動したのだろうか。ひとつには、数学者も文章を書くのだと知り、またそれを新鮮に感じたこと。これは、今思うまでもなく当たり前のことなのだが、若気の至りとして赤面しながら思い出す。またこれは後年になってのことだが、彼の愛国心や時折顔を出す「急性愛国病」が、私には妙に共感できてしまうのだ。今まで自分でも、「おっ、出てきた急性愛国病」と苦笑してしまう瞬間が一度ならずともあった。そして、その度にそれを野放しにしたり、もぐら叩きのごとく隠そうとしたりと躍起になっていたことを、告白しなければならない。

ともかく「数学者がものを書く」とわかって以来、書店に足を運ぶとたまに藤原氏の本が出ていて、その度に購入しては楽しんだ。サウダーデについて初めて知ったのも、そんな1冊に収められていたエッセイ「父の旅 私の旅」だった。藤原氏のご尊父新田次郎氏は小説『孤愁―サウダーデ』を新聞連載中に帰らぬ人となったという。遺された新田氏の取材ノートを携えて、生前のポルトガルの旅を追い、サウダーデに対する想いを綴ったのが「父の旅 私の旅」だった。このエッセイを読んだ時、きっと『孤愁―サウダーデ』はご子息の藤原正彦氏によって完成をみるのだろう、そうでなければならない、と思った。そのうち、早く読んでみたいと思うようになっていた。

藤原先生の退官講演があると文芸春秋誌上で知った時、定年後は、つまらない(?)頼まれ仕事をするのではなく、もっともっと書いてほしい。人の人生なのに大変恐縮だが、勝手にそう思っていた。すると今月の文芸春秋で収録された講演では、執筆活動を続ける、とあり胸をなでおろした。
さらに
「それからもうひとつ取り組みたい作品があります。父が亡くなるまで毎日新聞に連載していた『孤愁―サウダーデ』です。未完成の絶筆となりました。(中略)父の無念を受け継ぎ未完成だった後半部分を私が執筆して、亡くなって三十年になる来年に刊行させたいと思っています。」
(2009年5月号文芸春秋「父・新田次郎の背を追って」より)
とあり、小躍りした次第。来年に出るということは、既に構想は練っており、もしかして書き進めているかもしれないではないか!





大学図書館

振り返るに、今まである意味、大学や図書館に囲まれた生活をしてきた。
 ・ 大学、大学院まではいいとして
 ・ その後働いていた研究所や大学院大学もいいとして
 ・ 米国の大学院―それはもう、無尽蔵の蔵書とすばらしい図書サービスの数々。全米の大学
   ネットワークやe-library, アマゾンの普及も手伝って、本には不自由することはなかった。
 ・ 帰国後約2年間―図書館に囲まれる生活という点では真空地帯にいたかもしれないが、
   なぜかそれほど不満はなかった。やはりアマゾンの力かもしれない。
 ・ そしてまたここ数年、大学や研究所で、近くに大学もあり、本には不自由しないはず
   だった・・・。

先日、とある大学図書館まではるばる出かけた。というのも、分野外の専門書を急遽読まなくてはならない状態になったからだ。調べてみると、○○大学の図書館にあるとわかった。ただ、大学は春休み中(なんてことはすっかり忘れていたが )で、平日でも閉館になる日もあるらしい。また開館時間もいろいろ変更があるそうだ。もちろん所蔵の有無をはじめ下調べと準備はバッチリ。あとはそこに出向いて本を借りるのみ。慣れない敷地内でようやく建物を探し当て、地下2階まで下がり、奥の書庫に行き迷路のような中を突き進み、やっと見つけた1冊。手を伸ばし開いてみると、貸し出し欄は空欄。2006年出版だが学内どころか借りた形跡は一切ない。

ずんっ  (随分と重い本だこと・・・) → 階段を上がり  → 貸し出し手続きへ

図書館への紹介状をみながら、「少々お待ち下さい」とカウンターのスタッフ。さんざん待たされた挙句に言われたのは
「すみませんが、この本は本学の学生でないと貸し出しできないことになっているんです」
目がテン  とはこのことである。それなら電話で問い合わせ確認した時に、なぜそう教えてくれなかったのだろうか??
そもそも、貴重な昼休みを使ってそこまで行き、本を求めて荷物を片手に地下2階まで下りてゆき、重い本をもって階段で地上階受付まで来た挙句に、にこやかに断られた時の脱力感ときたら・・・。
何も辞書とか古文書でもあるまいし、この2年間、学生も教職員もだれ一人借りていない。この、いかにも需要のない本を求めて来た学外の人に貸せない本、そして図書館サービスとは一体何であろう。そう思ってみればみるほど、あまりにフツウの本・・・(ちょっと重いけど  )。

どんなに e-libraryが発展し電子ジャーナルが普及しても、どうしても図書館の手を借りなくてはナラナイ時が、やはり出てくる。絶版の本、分野外の本、今日中に必要になった時、今回の私のようにあまり興味ないけれど急遽読まざるを得ない状況・・・。そしてそういう時は往々にして不意にやってくる。

基本的に個人で本を買ってしまう人は少なくない。なぜか―ひとえに「待ってられない」からだ。
では何を待てないのか。それがいろいろあると思う。名づけて、ユーザーが待てないことリストを
挙げてみます。
 ・ 待望の本が届くのも
 ・ 設備が整うのも
 ・ 行き届いたサービスが大学や連携している複数の大学間に浸透するのも
 ・ 図書館サービスの主体である人材が育つのも
 ・ ニーズに素早く応える仕組みを作るにも
 ・ そのための予算がつくのも
 ・ 予算をつけようと学長や行政が動き始めるのも
この「いろいろ」は、そのまま図書館サービスの質に直結しているということを、図書館業務に携わる人、もっと言えば図書館行政の関係者は認識しているのだろうか。

言い過ぎを承知で書けば、私の見る限り、大学図書館で働く人はニーズに反比例したようにどうも仕事中、のんび~りしている方が多いように見受けられる。まだ公共図書館の方がキビキビしている気さえする。想像するに、大学の先生や研究者は結局自分で書籍を買ってしまうことが多く、よほどのことでないと図書館は利用しない。対して公共図書館は、利用者もニーズも様々で、地方自治体もサービスの質向上に努めようと躍起になっているところもあるくらいだ。もうこの際、各図書館に一人でもいい、図書や文献を手元に置いておく重要性を知っている人、配置するべしと思う。大学図書館のクライアントは学生だけではない。時間との戦いで図書館まで足を運んでいる人もいることを理解してほしい。

大学図書館サービスとは一体何であろう。

以前、よその大学に文献コピーを依頼した時、見開きB4サイズに近い文献が、A3用紙にコピーされて届いたことがあった。思いっきり非対称だし、黒い面積の多いこと。紙の無駄に思えるが何より読みにくい。コピーし直さなくてはならないが、やはり紙と時間の無駄だ。せめて次回はと思い、
「拡大でも縮小でもいいのでA4か用紙のサイズに合わせるなり、両面コピーにしてもらえませんか?」
と尋ねてみたところ、即座に返ってきた答えは
「他大学に複写依頼を出すのにそこまでリクエストはできないんです。コピーの取り方は先方にお任せするしかないんです」
本当だろうか?経費を払っているのに依頼すらできないのもおかしな話である。せめて試しに頼んでみてもいいのでは?さもなくば、もう次からコピーはいらないからスキャンかPDFにして送ってもらいたいものだ。

美術館、博物館、大学図書館等をみれば、その国の知的ニーズがわかる、という。確かにアカデミズムや知的ニーズと相関関係が高い。図書館だけが理由ではないが、50年後、いや20年後、このままでは日本発の学問の、世界への貢献度も怪しくなっているかもしれない。日本発の学問が取り残されていくのは忍びないけれど、とにかく私は待ってられない!ということで、ごくたまに図書館を利用してこんな目に遭うまでもなく、結局自分で本を買い続けることになる。


驚き

わずかな時間でも、書店にいるとなぜか気持ちが落ち着く(一方、書店にいるとなぜかトイレに行きたくなる人も少なからずいるようですが)。混んでいないとなおさら心地よい。それに、たまに書店に行くと思わぬことに遭遇することも。ついこの前もある本を探しに青山ブックセンターに立ち寄ると、「レヴィ・ストロースの生誕100周年」という文字が飛び込んできた。曰く、「2008年11月28日 レヴィ・ストロースは100歳になりました」そ、そうだったの~~ ?!と二重の驚き。
(驚きその1) フランスの偉大な人類学者、構造主義の祖がご存命だったとはつゆ知らず…。
         『悲しき熱帯』はいつの作品だったっけ?(家でみると1955年刊行でした)
(驚きその2) わたしと同じ誕生日だった、のね…。

今年に入ってから、ものすごい勢いで本を買っている。もともと本代は惜しまない性質だが、このところ買う量だけでなくスピードも加速されている。数えたこともないが一体、週に何冊、いや「いくら」購入しているのだろう。便利なインターネット注文に頼ることも多いが、やはり書店に足を運ぶのが至福の時である。でも読むのは購入した本のうち3分の1もあるかどうか。買って1年以上読まないような、忘れ去られた本もある(そういう本に限って、時機を得て出てくる偶然もまたたのし)。それでもなぜ買うのかといえば、瞬間でも読みたいと思ったから。読みたい時に絶版になっていたり、手元にない状態だけは極力避けたいから。一方、あとで再読する本もあり、何度も手に取るうちに自分の古典となっていく。だから生きていく限り、私(と家族)の課題は本の置き場であり、私の夢(のひとつ)は将来、自分専用の書斎をもつことだ。そして今日もせっせと買う。迷わず買う。
プロフィール

Sainah

Author:Sainah
仕事&興味:途上国と開発援助 [セクター] 農業・自然環境・生態系
少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき

カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新記事
カテゴリ
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

Twitter
FC2ブログランキング
カチッ♪クリックしていただけると  はげみになります ↓

FC2Blog Ranking

天気予報

-天気予報コム- -FC2-
月別アーカイブ
リンク
カテゴリ
RSSリンクの表示
検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター