ユンちゃんその後


JAL機内誌スカイワード8月号(2012年)によると、「ユンちゃん」は50歳になっていた。パリに渡って最初は職業学校を終え、シャルル・ドゴール空港内の通関会社に勤務し、日本や韓国向けの輸出業務に携わっていた。その後、子育てを終えて復職、パートタイムで働いている。ピエールと結婚し、ひとり息子にはジュリアン・コウイチと父親の名前を与えている。「ベトナムは私の祖国。でも、当時は戦争でしたから日本へ行くのはうれしいことだった。」と話している。

また、『バンコクの妻と娘』にもたびたび出てくる、ユンの言語をめぐる近藤さんの叫びにも近い悩みは読者の心を捉えて離さない。居を定めず転々とする新聞記者稼業ゆえに、ユンも思春期をベトナム、東京、バンコクで過ごすことになる。言語はベトナム、日本、フランス語のどれも中途半端の状態だったようだ。妻ナウさんに至っては、「ゆっくり腰を落ち着ける国が決まったら、そこの国の言葉を覚えるから、それまでは脳みそを節約しなくては」と話していたほどだ。妻は買い物程度の会話ならできるし、いざとなればユンや夫の助けも得られるが、十代のユンにとってこれから生きる言語を決めることは人生の方向性の選択にもつながる。
こういう背景で、近藤さんが「戦争で祖国を失ったユンではあるが、ユンを無国籍人間にしてはいけない、ユンに思考の道具となる言葉を、核となる言語を習得させなければならない」と苦悩する場面が出てくる。また、厳しかった母親と相違して、良き相談相手でもあり、また何かにつけ「気楽に行こうぜ」と背中をしてくれた近藤さん―ユンはお父さん子だったと想像するに難くない。ユンはフランス語を選ぶ。

母となったユンは語る。
「お父さんと国について話したことはありません。でも、お父さんの心配はわかっていました。お父さんは私にフランス語を勉強しろと言うのです。人格を形成するための言語はフランス語がいいんだと言いました。そこで、私はそのとおりにやっていました。今、私はフランスに暮らし、フランス語で考えます。主人はフランス人です。でも、私は自分の国はと問われたら、フランスとは言いません。日本と言います。国籍も日本人のままですから。また、ベトナムは祖国ですけれど、もう私の国ではありません。

人間にとって、私の国とはそこに住んで暮らしていて心地よい国のことではないでしょうか。私はいま日本に暮らしていないけれど、時々、帰って日本を満喫しますし、いつも日本のことが頭をよぎります。私の息子コウイチはサイゴンにも東京にも行ったことがありますが、どっちが好きと聞いたら、東京と答えます。

私はお父さんの本を読んだことはありません。日本語もわかりますから、読もうと思えば読めます。でも、お父さんを思い出してしまうから、一生、読むことはないでしょう。日本にはいいつか帰りたいです。友だちもいますから。ベトナムへは旅行することはあるでしょうけれど、住みたいとは思いません。最後まで暮らすのならば日本です
」(JAL機内誌スカイワード8月号より)

ユンちゃんについて


ユンの母であり近藤さんの妻となるナウさんはベトナム魂の塊のような女性らしい。8才で家の手伝いでものを売り始め、娘ユンの年頃(13、4歳~20歳)にはすでに、野菜や魚の仲買いをしたり、トラックを雇って運送業を手掛けたり、大衆食堂や一杯飲み屋を開いたりと、「母親譲りの商才」を発揮していたらしい。南ベトナムで戦乱の世に育ったとはいえ、十代の一番いい時期を、自分と家族のために能力だけを頼りに生きてきたことになる。戦火の中自力で生き抜いていくには他人に依存せず生きていく逞しさ、賢さ、度胸、そして時に喧嘩もいとわない激しさが必要だった。そうした育ちの環境のせいか、自立していない女の子(ここでは娘ユンのこと)など、考えられないことだと書かれている。それだけに母ナウさんはたくましくも厳しく、娘ユンにも容赦しなかった。その、徹底したしつけと母親の威厳も3部作のところどころで出てきては、「日本の母親、もっとしっかりせい!」とナウさんに言われているようで、読みながら頭をうなだれるのみ。

近藤氏とともに東京に連れて来られた時、ユンは13歳。東京にリセ(フランスの教育システムをとる中・高校)に転入し、フランス語での教育が始まる。数年後には近藤さんのバンコク赴任に伴い、東京での独り暮らし(リセの寮生活)が始まるが、その間のことは『バンコクの妻と娘』に詳しい。その後、ユンは、東京での生活を楽しみながら学業では努力を重ねたようだが進級できなかった。

その時に、リセの校長からバンコクの両親に手紙が届く。曰く、「ミーユンに取って何よりも大切なことは、一つの文化を見る目を備えさせることだと考える。率直に申し上げて彼女には、今、何の文化的基礎もない。(中略)文化を知るということは、思考をするということであり、思考のための必須の道具は、言うまでもなく言葉である。」 
こうして「思考の道具となる言語をもつこと」というリセの校長の親身な助言が、ユンの親である近藤氏に向けられる。東京のリセよりバンコクのリセに転校したが、バンコクのリセ閉鎖に伴い、フランスに渡る。そこまでの様子が、『バンコクの妻と娘』『パリへ行った妻と娘』に書かれている。特に、『パリへ行った妻と娘』では、ユンの進路選びを軸に、タイのリゾート地で知り合ったフランス人家庭(ルロワ家)、ユンがパリのルロワ家にお世話になるいきさつ、ルロワ家の息子ピエールとユンの行く末を案じる両親の思いが描かれている。父親の近藤さんは「ままごとのなのか、それとも真物なのか」判断しかねると案じていた二人だったが、『パリへ行った妻と娘』のあとかぎで、二人は結婚に向けた準備をしていると読んだ時は、読者は一様にほっとしたことだろう。それでも、結婚は近藤さんの喪が明けるまで結婚してはいけないとの母親の厳命により、2年待ってのことだった。この3部作を通して読者は、ユンちゃんの成長過程と悩み、葛藤、もがく姿を追いながら、それぞれに笑い涙した。

そのユンちゃんだが、昨年、JAL機内誌でユンちゃんについて読む機会があった。近藤紘一の足跡をたどる連載「美しい昔 近藤紘一が愛したアジア」の最終回だった。近藤紘一氏は胃がんのため1986年に45歳の若さで他界している。
(続)

カーラ・ヒルズのメッセージ 「私の履歴書」より


先月の日経新聞「私の履歴書」は、米国の元通商代表カーラ・ヒルズ氏による連載でした。彼女の名前と共に「スーパー301条」が新聞一面に出ていた頃を覚えています。とかくタフ・ネゴシエーターの印象が強かったヒルズ氏は、弁護士出身だったということを知りました。

この連載は読み応えのあるものでしたが、そのうち3月30日の連載(30)は最終回前ということもあり、働く女性としてのメッセージがしんみりと伝わってきました。以下引用します。

==(以下引用)==

振り返ってみると、私はとても幸運だった。弁護士という仕事に就きたいと思い、その願い通りになった。後に政府の公職を引き受けることになり、それらもとても面白く感じることができた。私は自分が女性だから、共に働く男性陣とは違う、あるいは違うと判断されるべきだと思ったことはない。むしろ、「良い女性弁護士」になろうとはせず、「最良の弁護士」であろうとした。

働く女性に対して私がアドバイスできるとしたら、「自分が好きだと思える仕事に就きなさい」ということに尽きる。好きでもない仕事に就いても熱意は出ない。そこから生まれる結果も知れている。次のステップは、「その好きな仕事において、ベストであろうと心がけなさい」ということだ。別の言い方をすれば、5年をメドに仕事に取り組み、それで様子を見てみることと。もし、喜びを見いだせていないのならば、自分に向いていないということだ。若い時分はいくつかのことにトライしてみるのもいいだろう。それらを通じて、「自分に最も合っているもの」を選ぶことができる。そうすれば、それはもう、自分にとって「仕事」ではなくなる。その瞬間、それは「喜び」に変わっているのだから。

夫・ロデリックは本当にできた伴侶だと感謝している。しかし、彼は今もどの戸棚にコーヒーカップがあるのか知らないまま、日常生活を営んでいる。彼の母親は専業主婦であり、何から何まで彼の面倒を見ていた。しかし、私の子供たちの世代は全く違う。息子や娘婿たちは夫よりはるかに家事をこなす。それが世代間の差異なのだろう。私の母も懸命に父に尽くし、彼を支えた。幼心にも私も「妻とはそういうものなのだ」と感じていた。私のような世代の女性にとっては、夫がゴミ袋を家の外のゴミ捨て場に持って行ってくれるだけで、とてもありがたく感じてしまうものなのである。

思えばまだ弁護士、そして主婦として働いていた頃、私は毎朝7時半には家を出ていた。それまでに4人の子供たちに食事を作り、学校に送りだした。子供たちの通う学校が違ってきた時には、夫も彼らを車で学校まで送ってくれた。素晴らしい家政婦さんに恵まれてはいたものの、とにかく1日中、走り回っているような気分だった。それでも、そんな生活を楽しんでいる私がいた。
==(引用ここまで)==(青字は共感した箇所)

女性であることを意識せず仕事をしてきたヒルズ氏でも、家庭では主婦の役割を担ってきたこと(家事を代行してくれる家政婦さんがいたとはいえ、指示や監督はやはり一家の主婦である彼女の仕事になる)、米国でも男女の役割にここまで顕著な世代間の相違があったことは、今の日本にとっても何とも示唆的だと思いました。彼女のように優秀な弁護士でかつ政府の要職につきながらも、家庭や社会で個人に求められるものは普通の市民と同じだったのです。

「英語プレゼン技法」


午前中は人間ドッグ検診に。
しかし今日の目玉は午後の「英語プレゼン技法」の講演会。慶應理工学部のキャンパスで日吉に向かう。日吉駅に降りたのは初めてであったが、何だかにぎわっている街だ。

そもそも実は4月下旬のイタリア出張でプレゼンをすることになっている。「すべて任せるからパワポ作って発表して。好きなようにしていいから」と上司には自由裁量で任されてしまった。私とて今の職場に来て対外的には初のプレゼンだ。しかも相手は多国籍のツワモノぞろい。ぜひいいプレゼンにしたい。ただストーリー性をどうふくらませるかが課題でもあり、どう組み立てるか考えなくてはならなかった。そんな折も折、先週土曜日にtwitter で知ったこの講演会。今日が休みだったことも幸いして日吉に向かうことにした。

プレゼンタ―は小野雅裕さん。何でもすごい方のようだ。東大の航空工学科を出てMITでPhDをとり、慶應で一年教えて5月よりNASAの研究所で勤務されるという。そのためこれが最終講義との位置づけで、100名強の聴衆の大半が学生で1割弱が社会人のようだった。また小野さんは『東洋経済』で連載を書いており、「国語力を磨けば、日本の理系は世界で勝てる」はそのひとつ。とてもわかりやすい文章だ。米国の大学でPhDを終えた、理系の研究者ということで、何より4月のプレゼン準備が頭にあった私は、迷うことなく今日の講演を急きょ拝聴することにした。



以下今日のセミナーの内容です。

野村監督が弱者には弱者の戦い方がある、と言うように、ノンネイティブで育った日本人にはそれなりのコツや準備の仕方がある(ちなみにご本人は阪神ファン、ついでに野村ヤクルトファンだった管理人です)

⇒ 要は相手と同じ土俵に立つには、凡人は凡人なりの工夫や戦略を立てる必要がある

意識として押さえてるべきはこのふたつ。
・ わかりやすく(小難しく難解な内容をよしとする一部の日本の風潮への警鐘)
・ 記憶に残るプレゼンを(30あるプレゼンで記憶に残るのはせいぜい2,3)

⇒ プレゼンの目的は相手に覚えてもらうこと、興味をもってもらうこと

そのためのコツや心がけが10点、挙げられていた。以下はそのうち記憶に残っているもの。
・ 自信を持つこと
・ 表情を豊かに
・ 新出の言葉は後ろに(書き言葉)
・ 自分の発表は研究内容を理解してもらうのではなく、研究の宣伝だと思え
・ 練習、練習、練習―フィードバックをもらえ
・ 良文をたくさん読め

私にとって特に参考になったのは以下の点
・ わかりやすく話すことの大切さ
・ ドラマティックに、印象に残るということ(話を盛り上げるグラフを示しながら)
・ ストーリーを印象付ける話の構成(シンプルに4段階の展開)
・ 練習(時には鏡を見ての練習も)とフィードバックを受ける大切さ

有用なだけでなく、生き生きとしたお話だった。話しながらご本人も楽しんでいるようだったが、それでも昨晩ご家族の前で練習したというあたり、見習うべきだと感じた。素晴らしいことは、このポイントは英語だけでなく日本語でのプレゼンにも適用できること。



行く価値のある講演会だった。とくにプレゼンを控えている私にとってはまたとないタイムリーな話を聞かせていただいた。しかもこの講演会はYouTubeがサイトにアップされているので、これからプレゼンを準備する方はぜひそれを参考にされたい。

後日、プレゼン資料もアップロードされました。まとめてこちらをご覧いただければいいようになっています。

⇒ 上手なストーリーテラーはどのような人か。いかにそういうプレゼンタ―になれるか (が語られています)



最後に「子どもの頃からの夢を実現しに行きます。その夢は、宇宙開発に歴史に自分の名を刻むことです」と話す姿が、何だかとても爽やかで格好よかった。あの場にいた学生も何割かでもたとえ数人でも、「ぼくも私も小野先生のように夢に向かって生きたい」と心に灯が点けられたとしたら、これほど素晴らしい退任講演はないだろう。

仕事を楽しむ?


今の職場はかなりのドメドメ職場といいますか、これぞ ザ・ジャパン を絵にした職場―少なくとも私の眼にはそう映ります。

さすがに今の時代、お茶くみの女性はいないですが。
(でもトップマネジメントの部署にはいるのかな、と妄想していたり。ま、いいけれど)

それにしても日々経験している数々のカルチャーショックや驚き(内心ワ―オ  といいたくなるような)。素晴らしい知恵もあれば、忙しいと言いながらどうしてこんなことやるのかな~、ということもあります。

私がこういうことを感じるにも、一応ワケがあります。
なにせ、こういう環境(ザ・ジャパンの職場)で働くのが初めてなのです。
おそらく日本的基準から言えば、多分かなりの世間知らずであろう自分。
前職場の仲間にも、とくに後輩にすら
「僕、Sainah さんが新しい環境でやっていけるかなって、正直ひそかに心配しているんですけれど~」
と言われる始末。そ、そうかな
ま、正直無理せず、それでもいいとも思っています。それに「日本の基準」やいわゆる「常識」にもおかしなことって多いですし。

それでも最近わかってきたのが、業界用語に加え、彼らのよく使う言葉の本当の(ウラの)意味。
たとえば、今のチームは4月に人員の編成があったらしいのです。
そんなことは知らずに、深い考えもなく5月中旬から加わった私は、

みなさん、せっかくですから楽しく仕事しましょう。

といったリーダーのかけ声を聞いても、あまり響かず。
むしろロンドン休暇明けで気楽な気持ちだったこともあって、ほとんど流していました。
それにしても以来、何度聞いたことか、このセリフ。
だんだん聞くたびに、何か少し違和感が芽生えてきたのも事実。

だって、仕事とて、どうせやるなら楽しまなきゃという思いでしたから。
言われるまでもないし、当たり前のこと。。。
そもそも、楽しい仕事ってどこでも転がっているわけではないけれど、仕事をしていくうちにみつかる種々の楽しさやワクワクした思いはたまりません。 それを別にことさら強調されなくても。
それに、仕事が楽しいのは個人次第のこともあるのに、もしかしてみんなが楽しめる仕事ってそんなにあるものなのだろうか?それってなんだろう?

みたいな疑問がわいてきました。で、そのうちわかったこと。

・楽しく、は「仕事」にかかるのではない。
・みんなで楽しく、の意味は、和を尊びチームワークを大切にすること。


つまり意味するところは、「仕事はみんなで協力してやりましょう」。
そういう意味だったのね~(汗)。

どうりで微妙に浮いていたはずだわ、わたし。。。
仕事自体をモロに楽しんでいましたから(笑)。



先日訪ねてきてくれた昔の同僚のFさん。曰く、
「一度でいいからこういう職場で働いてみたかったんですよ~」

私「え、まじ?ほんとですか?」

Fさん「結局、夢に終わりましたけどね、でも大変なこともあると思いますから、人格変わらない程度にがんばってくださいね」

彼は正直で実直なひとですが、ヨーロッパで働く環境を手に入れ、なかなかお上手もうまくなったものです。

ま、がんばります~。

プロフィール

Sainah

Author:Sainah
仕事&興味:途上国と開発援助 [セクター] 農業・自然環境・生態系
少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき

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