もがいていたこと


3月はフィリピンでは夏の始まりである。去年の2月末、冬の東京からやってきてまず、生活基盤を整えることから始まった。最初は住む場所を探し始めた。いくつかの不動産業者に連絡を取り、物件を見るところから始まった(6社に連絡したが返事がきたのは4社、そのうち対応がよかったのが3社、実際に案内されて回ったのは2社)。といっても仕事の合間の時間を使って、すなわち毎週末の土曜日か平日の昼休みに見て回った。いったい何件見て回ったことだろう。最初は3地域を回っていたので渋滞もありかなり時間がかかった。物件をみていくうちに自分の好みが分かってきた。というのも、譲れない要素として(1)方向(東向き、西日に無縁な角度)、(2)眺望(部屋の向きによって眺めが大きく変わる)、(3)高層階であること(低い方が車の騒音から逃れられる)だとわかった。これは意外だった。地震国からきた身としては低い階を希望していたのだが、すぐさま「いま出回っている物件から探すしかない」という現実にぶつかった。そのうち、新しい視点が加わった。空気があまりきれいではないので、窓は車の少ない土曜日の数時間しか開けない。となれば高層階のほうがいいということ、また低層階は道路の騒音もありあまりお勧めではないこともわかってきた。そもそも高層マンションに住むのが初めてだったのだ。

地域を絞ってからはここなら住めそうという4件ほどに絞った。その先は大屋さんとの交渉に入る。交渉内容は家賃もさることながら、敷金(みたいなもの)を何か月分にするかというものまである。1-2か月が相場だが、こればかりは大屋さんによる。こちらとしては戻ってくるかもわからない敷金は最小限の1か月分で抑えたい。しかしもっとも大きな交渉要素は家具や備品。家具付きの部屋なので、あれを置いてほしい、もしくは取り除いてほしい、という千差万別のリクエストに対して大屋さんが対応する。こればかりはもう根比べと柔軟性の勝負になる。日本人の美徳でもある遠慮や配慮はまずここでは生きないことも学んだ。こんなことまで頼んでいいのだろうか、といった遠慮は無用。言っても応じるかは相手あってのことだからダメ元で言ってみるか、最初から何も言わずに我慢するかの選択になる。私は某インド人が、家を借りる条件として庭に池を作らせたと聞いてからは、そこまで頼めるのかと密かに感心したと同時に、とりあえず言ってみようと思うようになった(もちろん言い方は大切だが)。ちなみに、フィリピン人だと海外(中国か米国)に住む大屋さんも多く、大屋さんの代理人(兄弟姉妹か友達)が対応している。その場合、確認とひと人手間が入るので、どうしても時間がかかる。私の大屋さんは、共働きのフィリピン人夫婦で同世代だったのと、彼らも海外に住んで家を借りていた経験があったので、あまりもめることもなく助かった。正面切って条件を話していながら、内心は穏便にできれば早く済ませたいのは双方同じだと思う。

車の手配も最初はどうしたものかと思ったが、マニラの渋滞をみて自分が運転できるわけでもなく車を持つ気も失せてしまった。結局、Uber(アプリで呼ぶ日本のタクシーに相当)と仲間とのカーシェアリングで今のところ何とかなっている。自分の所有物はミニマムで過ごす信条で過ごしている。これはマニラというよりは、東日本大震災の影響かもしれない。

大きな気づきは、そもそも「普通がない」だった。子どものころから正解を導く傾向の強い日本の教育を受け、社会に入っても片足を外国につっこみながらも主軸は日本だった。そのため、好き勝手に生きてきた私だが、所詮は日本の海でもがいていたに過ぎなかった。フィリピンに来て、生活でも仕事でも「日本人の自分」をいやというほど実感したのは、「普通はどうするの?」と考える時だった。それを聞くと、フィリピン人や非日本人からはかえってくる答えは「It depends」「案件ごとに違うし、決まりはない」「知らない、一概にいえないから」に集約される。おそらく私と同じ道(思考回路)を辿ってきたであろう日本人の返事は「ここでは普通は存在しないと思った方がいい」だった。彼らもおそらく当初は普通を求めそのうちに悟ったに違いない。いろいろあるのだから、普通を求めても仕方がないし、そもそも意味がない、と。1年たち、ようやく自然に普通を求めないようになっていた。こうなるまでに実に1年かかったのだ。

マニラに来て1年ーーもう1年とも、まだ1年ともいえる。

忘れ得ぬ人々(4)


偶然は重なるもので、アンナと再会した翌朝の今日、米国の学校でお世話になったG先生よりメールが来ていた。去年の4月に出したカードがようやく彼の手元に届いたようだ。前のメールアドレスでは届かなかったので郵便を出したのだが音沙汰がなく、すでに引退したのか病気なのかとも思案もしていた。まずはお元気な様子で何よりだ。

国際協力の世界でもプロだった彼は、カーター政権の頃から米国の環境政策の主軸を決めるリーダー的存在だった。地球温暖化や環境政策をめぐる今の米国の状況に、彼が心を痛めていることは容易に想像がつく。在学中見てきた姿からはリーダーシップがあり改革を断行する一方で、留学生に対して親身になって心を傾ける先生だった。個人的には、ベトナムでのインターンをするためにいただいたご支援には感謝してもしきれない。推薦状とともに奨学金まで融通してくださったのだ。こうした人々との出会いや縁に、留学1年目の心細い学生がどれだけ勇気づけられたことか。

うれしくも今週は留学先の縁を思い出すことが重なった。私も微力ながらできる限り世の中に、恵まれない人、若い人のために役立ちたいと思うのは、まさにこういう先生方のおかげでもある。行動と思いは連鎖する。

思い出したこと

米国の大学院でクラスメートだったアンナからフィリピンに来るという連絡を受けたのは1月中旬のこと。島国フィリピンのあちこちを回るため、彼女のマニラ滞在の日は限られていた。私も不在の日が続きマニラで会えるかも定かでなかった。旧正月後の2月に入ってから再会が叶った。

15年ぶりだった。互いの近況や共通の友人のキャッチアップで話も弾む。北欧出身のアンナは文字通り世界を股にかけて、絵に描いたような国際派キャリアを歩んでいる。卒業後、メキシコで1年働き、ニューヨーク、 ワシントンDCと移り住んできた。出張で訪れたアフリカの国の数はカウント不能なほど。とくに内線下のシエラレオネに2年間をよく生き永らえたものだと振り返る。そんな彼女が行ったことのない国は意外なことに、インド、スリランカ、ブータン、日本だとか。

フィリピンは3回目。10年ぶりだと肩をすくめて話す。フィリピンは、文化の香りや美術館が少ないかもしれないけれど、英語が通じることを除いてもスペインとアメリカの名残もあってか easy country だと明言する。人はストレートだし、思ったことをそのまま話すし、妙に気を遣わなくていいので気が楽だと話す。(そりゃアフリカに比べればそうかもしれないけど、フィリピンならではの苦労もあるのだよ、アンナ。。)

アンナと出会った学校はプロフェッショナルスクールだったので、職務経験を経てから来る学生が殆どだった。その多くは3年ほど働いた経験を携えた20代後半から30代の学生で2年のコースだったが、アンナのような中堅ベテランもいた。そういう人向けに、7年以上の職務経験のある学生は1年でコースを修了できる制度があった。すでに開発業界で働いていた彼女は、入学は私と同じ2000年だったが一足早く2001年5月に卒業していった。その5月、NYの国連ビルを彼女が案内してくれた。イーストサイドで自分が働く姿はとても想像できなかったけれど、その後、転じて国際協力の仕事をしているのは不思議な縁を感じざるを得ない。おそらくその原点はまさに彼女と出会った学校での2年間にあったとことは間違いない。15年たっても変わらない彼女を見てそんなことを思い出した。そして奇遇にも、今の彼女の同僚には、私の知人や元同僚が二人いる。まさにsmall world 、またの再会を期してその日まで頑張ろうとエネルギーが湧いてくるのを感じた。友情の有難みをしみじみ感じた。

私の3月11日


日経新聞の連載「私の履歴書」の年頭はカルロス・ゴーン氏。まとめて読み進めていたところ21回目で東日本大震災時についての記載が出てきた。工場を各地に持つメーカーは大打撃を受けたはずだ。どういう対応がなされたのか、想像を超えた困難や苦労があったのではないだろうか。そう思いながら読んでみた。

随所にimmediatelyという表現が出てくる(原語の英語がわかりやすいので、Nikkei Asian review版をオンラインで読んでいる)が、その後には、再建、修復、回復など未来に向けた力強い言葉が続く。日産とルノーのCEOを兼任するようになってからのゴーン氏は月の3分の1は日本、フランス、世界各地を回る仕事、と時間と仕事を3分していた。2011年3月11日はフランスにいた氏は、すぐさま東日本大震災の報を受けた。読みながら以下のくだりに目がくぎつけになった。
- 「どんな状況であれ、全力を挙げて復興へ向けた努力を」と震災直後に指示を出した。
- すぐさま日本へ戻ろうとしたが、日本の空港封鎖とルノーの事情で、ようやく戻れたのは3月21日だった。
- 東北の工場の被害は甚大で、自動車会社の工場はどこもそうだが日産は特に最大の被害を受けていた。福島県いわき工場の関係者は今後を心配していたが、工場再建の意思を一刻も早く伝えたかった。工場閉鎖はみじんも考えていなかった。

真のリーダーとはこういうものなのかと、羨ましさを禁じえなかった。当時、自分の置かれた状況を重ねて思い出したからである。私のいた職場がどうだったか、いまなら冷静に振り返ることができる。記録として書いておきたいと思う。



その職場は外資系の組織で公用語は英語、スタッフも多国籍で日本に住む期間も2週間から20年まで様々だった。しかしあのような地震は日本人であっても「慣れる」ものではない。ただ、その時の状況で冷静に行動、判断できるか、すべきことをいかにするかが問われる。地震が起きてから業務再開まで流れは以下の通り。

3月11日(金) 午後3時前に地震発生。一部停電、電車が止まり職場にとどまる
3月12日(土) 停電は続くが電車が動き始め、お昼過ぎに自宅に戻る
3月18日 地震後、職場に出勤してみるも人影はまばら。大半の職員、特に外国人スタッフの姿は皆無
3月22日 Director の呼びかけで震災後初の部内ミーティングが召集される。Skypeで海外から参加するスタッフも。上長不在のため不安が続く別部署からも参加。いま組織の存在意義は問われている、日本社会は通常に戻りつつあるのに、信ぴょう性のない情報に振り回されて右往左往するこのざまは何だ、とのメッセージ。
3月22日 来週より業務を再開するとのアナウンス
3月29日 職場全体の業務再開

地震翌日の3月12日から外国人、または配偶者が外国人の日本人スタッフが一斉に関西や海外に逃れてスタッフ不在の日がしばらく続いた。被災地ならともかく、首都圏の各地では停電や節電が続きながらも、各地の小中学校ですら翌週半ば(3月16日)には再開していた。おそらく自治体や普通の日本の会社も始まっていたに違いない。一方、世界各地に散らばった我が社の職員は、それなりの不安や家族の問題を抱えていたので、各スタッフが上長にメールを出し東京に戻れない理由を訴えていた。

来日して日の浅いスタッフやインターンなら恐怖のほどもわかる。しかし在東京15年以上になるようなベテランスタッフでさえも、震災当日はこちらが驚くほどパ二クっており、そそくさと関西や中国に逃げていった(ちなみに逃げ足の速さは中国人が目立った)。中には普通に日本語も話し、いかに自分が日本を愛しているかを日頃アピールしているスタッフもいた。震災で首都圏の交通は止まり停電や節では続いたが、徐々に日本社会は機能再開していた。あれだけの大地震と原発の影響を受けながらも「落ち着いた行動をとり、互助精神を発揮する」日本を驚き、報じる海外メディアの報道が続いていた。しかし目の前で、組織や人の動き、機能停止状態を見せられた私は日本社会の動きとの温度差を感じ、「ここは外国同然。日本であって日本でなはい」ことを否応なく実感していた。

一目散に逃げた人々を責めるつもりはない。不安は理解して余りある。都民の私でさえ怖かったのだ。言葉のわからない外国人が恐怖でおののくのは自然な感情の発露だろう。同時に、震災にかこつけて目に余る扇動や無責任な言動、人間的弱さを示す行為がいかに多かったことか。それとともに、ここまで人に助け舟を出すことができるのかと思うような行動も散見された(重い防火扉を抑えて皆を避難させる、電車の運転再開の情報を流す、食料を調達するなど)。これは国籍や日本の滞在歴によるものだろうか、否。非常時には人間性や度胸、肝、落ち着いた精神が自ずと現れる。あの時、都内にあった職場のビルは5階を境に揺れの影響、被害は分かれた。5階以下は揺れもひどくなかったが、我々のいた11階は立っていられないほど大きく揺れ書類キャビネットや本棚がすべて倒れた。本や書類は床一面に散乱し、PCデスクも倒れかけた。情報インフラはというと、当日は集中したのか電話(固定、携帯ともに)は不通になったが、電気とネットはつながっていたので職場で過ごした夜はオンラインで情報を得ていた。NHKのon line ニュース, facebookが主な情報源で twitter もあったと思うかよく覚えていない。ただ、夜遅くになり女性スタッフに簡易ベッドが提供されたのは思いがけなくも有難いお申し出だった。

今でも忘れられない光景がある。震災翌日の12日午前中、ようやく帰宅できるという帰り際、ビルの正面玄関で幹部職員にばったり出会った。照れ隠しなのかどうしようもないかのように浮かべた薄笑いの表情を残しながらそそくさとビルを後にし、その後しばらく(2週間以上)姿を見せず戻ってこなかった。すべてが彼らしいと思った。我こそが組織の顔といった自負をよく顕示していたが、あまり上からも下からもおぼえがよくなかった。もっとひどいのは別の幹部職員である。彼はある部のトップでありながら、恐がる家族と一緒に即国外に逃れ、連絡不通になった。家族を理由に彼自身も3週間近く日本に戻ってこなかった。彼を上長とする50人ほどのスタッフは憤懣やるかたなく、しかし怒りのやり場がなかったのか隣の部(=我々の部)のミーティングに合流して不満をぶちまけていた。ただでさえあまりなかった彼の信頼は一気に失墜した。ようやく全員が持ち場に戻り業務再開となったのが3月29日である。

私自身、その3月末で7年間お世話になった職場を退職することになっていた。そのアナウンスを同僚に正式にするミーティングが3時に予定されていたのだが、その直前に地震が発生してそれどころではなくなった。数日間はスタッフの安否確認などに追われた。昨日まで顔を合わせていたスタッフも散り散りになり、何人かの仲間にはメールで別れを告げることになった。一方で、挨拶のメールを書きながらも込み上げてくるものがあったので、直に皆の顔を見ながら退職の話をするよりはこれでよかったかもしれないと思ったりもした。多国籍なりの労苦もあったが、それなりのダイナミズムも享受できた。何より、新規プロジェクトの開拓や立ち上げの経験、無から有を生み出す喜びは何物にも替え難かった。そうした貴重な思い出がつまっていたチームや自分の所属部での仕事にはハッピーだったので、本来ならば名残惜しい気持ちが続いたはずだ。ところが3月11日を境に状況は一変した。地震後の数週間におきた組織の動きや光景、指示の流れを見て、どこか私の中で完全に吹っ切れた。心の中で組織と決別した。

今でも覚えているもう一つのこと、それは震災の翌朝のコーヒーのおいしかったこと。震災当日の夜は数人が帰れず職場に宿泊した。夕食を買いに行った時に品薄のコンビニで買ったなけなしのクラッカーを出すと、あるスタッフの方が珈琲を入れてくれた。その方は、いつもどこかゆったりとしていて仕事のスピードも推して知るべしだった。でも震災の日の夜と朝は、その彼女の存在と入れてくれたコーヒーの味にどれだけ救われたことか。あれは立派な貢献だったと今でも思う。以来、何人もいた当時のサポートスタッフの中で今でも鮮やかに思い出すのは彼女だ。

いろいろ考えさせられた3月だったが、普通の生活の有難み、家族の大切さ、愛国心、生きる意味をあれほど強く突きつけられた経験はないのではないだろうか。震災後、海外の友人、知人からお見舞いと励ましの言葉をもらった。なかでもあるブルガリア移民は、「大変だろうけれど日本は大丈夫だよ。だって日本人だもの、復興にかける熱意と勤勉さは我々の国は及ばないほどすごい民族だ。必ず、しかも驚くほど早く復興するよ」 社交辞令かもしれない彼の言葉に、「ありがと、そう思う」と涙声で答えていた。その後、2が月半後に私も日本社会に復帰した。震災の復興とともに歩み始める静かな決意を少し秘めながら。そして日本人としての自分を取り戻すことができた。この時期に日本社会の一員として仕事をする経験があって、本当によかったとしみじみ思う。
プロフィール

Sainah

Author:Sainah
仕事&興味:途上国と開発援助 [セクター] 農業・自然環境・生態系
少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき

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