思い出したこと

米国の大学院でクラスメートだったアンナからフィリピンに来るという連絡を受けたのは1月中旬のこと。島国フィリピンのあちこちを回るため、彼女のマニラ滞在の日は限られていた。私も不在の日が続きマニラで会えるかも定かでなかった。旧正月後の2月に入ってから再会が叶った。

15年ぶりだった。互いの近況や共通の友人のキャッチアップで話も弾む。北欧出身のアンナは文字通り世界を股にかけて、絵に描いたような国際派キャリアを歩んでいる。卒業後、メキシコで1年働き、ニューヨーク、 ワシントンDCと移り住んできた。出張で訪れたアフリカの国の数はカウント不能なほど。とくに内線下のシエラレオネに2年間をよく生き永らえたものだと振り返る。そんな彼女が行ったことのない国は意外なことに、インド、スリランカ、ブータン、日本だとか。

フィリピンは3回目。10年ぶりだと肩をすくめて話す。フィリピンは、文化の香りや美術館が少ないかもしれないけれど、英語が通じることを除いてもスペインとアメリカの名残もあってか easy country だと明言する。人はストレートだし、思ったことをそのまま話すし、妙に気を遣わなくていいので気が楽だと話す。(そりゃアフリカに比べればそうかもしれないけど、フィリピンならではの苦労もあるのだよ、アンナ。。)

アンナと出会った学校はプロフェッショナルスクールだったので、職務経験を経てから来る学生が殆どだった。その多くは3年ほど働いた経験を携えた20代後半から30代の学生で2年のコースだったが、アンナのような中堅ベテランもいた。そういう人向けに、7年以上の職務経験のある学生は1年でコースを修了できる制度があった。すでに開発業界で働いていた彼女は、入学は私と同じ2000年だったが一足早く2001年5月に卒業していった。その5月、NYの国連ビルを彼女が案内してくれた。イーストサイドで自分が働く姿はとても想像できなかったけれど、その後、転じて国際協力の仕事をしているのは不思議な縁を感じざるを得ない。おそらくその原点はまさに彼女と出会った学校での2年間にあったとことは間違いない。15年たっても変わらない彼女を見てそんなことを思い出した。そして奇遇にも、今の彼女の同僚には、私の知人や元同僚が二人いる。まさにsmall world 、またの再会を期してその日まで頑張ろうとエネルギーが湧いてくるのを感じた。友情の有難みをしみじみ感じた。

私の3月11日


日経新聞の連載「私の履歴書」の年頭はカルロス・ゴーン氏。まとめて読み進めていたところ21回目で東日本大震災時についての記載が出てきた。工場を各地に持つメーカーは大打撃を受けたはずだ。どういう対応がなされたのか、想像を超えた困難や苦労があったのではないだろうか。そう思いながら読んでみた。

随所にimmediatelyという表現が出てくる(原語の英語がわかりやすいので、Nikkei Asian review版をオンラインで読んでいる)が、その後には、再建、修復、回復など未来に向けた力強い言葉が続く。日産とルノーのCEOを兼任するようになってからのゴーン氏は月の3分の1は日本、フランス、世界各地を回る仕事、と時間と仕事を3分していた。2011年3月11日はフランスにいた氏は、すぐさま東日本大震災の報を受けた。読みながら以下のくだりに目がくぎつけになった。
- 「どんな状況であれ、全力を挙げて復興へ向けた努力を」と震災直後に指示を出した。
- すぐさま日本へ戻ろうとしたが、日本の空港封鎖とルノーの事情で、ようやく戻れたのは3月21日だった。
- 東北の工場の被害は甚大で、自動車会社の工場はどこもそうだが日産は特に最大の被害を受けていた。福島県いわき工場の関係者は今後を心配していたが、工場再建の意思を一刻も早く伝えたかった。工場閉鎖はみじんも考えていなかった。

真のリーダーとはこういうものなのかと、羨ましさを禁じえなかった。当時、自分の置かれた状況を重ねて思い出したからである。私のいた職場がどうだったか、いまなら冷静に振り返ることができる。記録として書いておきたいと思う。



その職場は外資系の組織で公用語は英語、スタッフも多国籍で日本に住む期間も2週間から20年まで様々だった。しかしあのような地震は日本人であっても「慣れる」ものではない。ただ、その時の状況で冷静に行動、判断できるか、すべきことをいかにするかが問われる。地震が起きてから業務再開まで流れは以下の通り。

3月11日(金) 午後3時前に地震発生。一部停電、電車が止まり職場にとどまる
3月12日(土) 停電は続くが電車が動き始め、お昼過ぎに自宅に戻る
3月18日 地震後、職場に出勤してみるも人影はまばら。大半の職員、特に外国人スタッフの姿は皆無
3月22日 Director の呼びかけで震災後初の部内ミーティングが召集される。Skypeで海外から参加するスタッフも。上長不在のため不安が続く別部署からも参加。いま組織の存在意義は問われている、日本社会は通常に戻りつつあるのに、信ぴょう性のない情報に振り回されて右往左往するこのざまは何だ、とのメッセージ。
3月22日 来週より業務を再開するとのアナウンス
3月29日 職場全体の業務再開

地震翌日の3月12日から外国人、または配偶者が外国人の日本人スタッフが一斉に関西や海外に逃れてスタッフ不在の日がしばらく続いた。被災地ならともかく、首都圏の各地では停電や節電が続きながらも、各地の小中学校ですら翌週半ば(3月16日)には再開していた。おそらく自治体や普通の日本の会社も始まっていたに違いない。一方、世界各地に散らばった我が社の職員は、それなりの不安や家族の問題を抱えていたので、各スタッフが上長にメールを出し東京に戻れない理由を訴えていた。

来日して日の浅いスタッフやインターンなら恐怖のほどもわかる。しかし在東京15年以上になるようなベテランスタッフでさえも、震災当日はこちらが驚くほどパ二クっており、そそくさと関西や中国に逃げていった(ちなみに逃げ足の速さは中国人が目立った)。中には普通に日本語も話し、いかに自分が日本を愛しているかを日頃アピールしているスタッフもいた。震災で首都圏の交通は止まり停電や節では続いたが、徐々に日本社会は機能再開していた。あれだけの大地震と原発の影響を受けながらも「落ち着いた行動をとり、互助精神を発揮する」日本を驚き、報じる海外メディアの報道が続いていた。しかし目の前で、組織や人の動き、機能停止状態を見せられた私は日本社会の動きとの温度差を感じ、「ここは外国同然。日本であって日本でなはい」ことを否応なく実感していた。

一目散に逃げた人々を責めるつもりはない。不安は理解して余りある。都民の私でさえ怖かったのだ。言葉のわからない外国人が恐怖でおののくのは自然な感情の発露だろう。同時に、震災にかこつけて目に余る扇動や無責任な言動、人間的弱さを示す行為がいかに多かったことか。それとともに、ここまで人に助け舟を出すことができるのかと思うような行動も散見された(重い防火扉を抑えて皆を避難させる、電車の運転再開の情報を流す、食料を調達するなど)。これは国籍や日本の滞在歴によるものだろうか、否。非常時には人間性や度胸、肝、落ち着いた精神が自ずと現れる。あの時、都内にあった職場のビルは5階を境に揺れの影響、被害は分かれた。5階以下は揺れもひどくなかったが、我々のいた11階は立っていられないほど大きく揺れ書類キャビネットや本棚がすべて倒れた。本や書類は床一面に散乱し、PCデスクも倒れかけた。情報インフラはというと、当日は集中したのか電話(固定、携帯ともに)は不通になったが、電気とネットはつながっていたので職場で過ごした夜はオンラインで情報を得ていた。NHKのon line ニュース, facebookが主な情報源で twitter もあったと思うかよく覚えていない。ただ、夜遅くになり女性スタッフに簡易ベッドが提供されたのは思いがけなくも有難いお申し出だった。

今でも忘れられない光景がある。震災翌日の12日午前中、ようやく帰宅できるという帰り際、ビルの正面玄関で幹部職員にばったり出会った。照れ隠しなのかどうしようもないかのように浮かべた薄笑いの表情を残しながらそそくさとビルを後にし、その後しばらく(2週間以上)姿を見せず戻ってこなかった。すべてが彼らしいと思った。我こそが組織の顔といった自負をよく顕示していたが、あまり上からも下からもおぼえがよくなかった。もっとひどいのは別の幹部職員である。彼はある部のトップでありながら、恐がる家族と一緒に即国外に逃れ、連絡不通になった。家族を理由に彼自身も3週間近く日本に戻ってこなかった。彼を上長とする50人ほどのスタッフは憤懣やるかたなく、しかし怒りのやり場がなかったのか隣の部(=我々の部)のミーティングに合流して不満をぶちまけていた。ただでさえあまりなかった彼の信頼は一気に失墜した。ようやく全員が持ち場に戻り業務再開となったのが3月29日である。

私自身、その3月末で7年間お世話になった職場を退職することになっていた。そのアナウンスを同僚に正式にするミーティングが3時に予定されていたのだが、その直前に地震が発生してそれどころではなくなった。数日間はスタッフの安否確認などに追われた。昨日まで顔を合わせていたスタッフも散り散りになり、何人かの仲間にはメールで別れを告げることになった。一方で、挨拶のメールを書きながらも込み上げてくるものがあったので、直に皆の顔を見ながら退職の話をするよりはこれでよかったかもしれないと思ったりもした。多国籍なりの労苦もあったが、それなりのダイナミズムも享受できた。何より、新規プロジェクトの開拓や立ち上げの経験、無から有を生み出す喜びは何物にも替え難かった。そうした貴重な思い出がつまっていたチームや自分の所属部での仕事にはハッピーだったので、本来ならば名残惜しい気持ちが続いたはずだ。ところが3月11日を境に状況は一変した。地震後の数週間におきた組織の動きや光景、指示の流れを見て、どこか私の中で完全に吹っ切れた。心の中で組織と決別した。

今でも覚えているもう一つのこと、それは震災の翌朝のコーヒーのおいしかったこと。震災当日の夜は数人が帰れず職場に宿泊した。夕食を買いに行った時に品薄のコンビニで買ったなけなしのクラッカーを出すと、あるスタッフの方が珈琲を入れてくれた。その方は、いつもどこかゆったりとしていて仕事のスピードも推して知るべしだった。でも震災の日の夜と朝は、その彼女の存在と入れてくれたコーヒーの味にどれだけ救われたことか。あれは立派な貢献だったと今でも思う。以来、何人もいた当時のサポートスタッフの中で今でも鮮やかに思い出すのは彼女だ。

いろいろ考えさせられた3月だったが、普通の生活の有難み、家族の大切さ、愛国心、生きる意味をあれほど強く突きつけられた経験はないのではないだろうか。震災後、海外の友人、知人からお見舞いと励ましの言葉をもらった。なかでもあるブルガリア移民は、「大変だろうけれど日本は大丈夫だよ。だって日本人だもの、復興にかける熱意と勤勉さは我々の国は及ばないほどすごい民族だ。必ず、しかも驚くほど早く復興するよ」 社交辞令かもしれない彼の言葉に、「ありがと、そう思う」と涙声で答えていた。その後、2が月半後に私も日本社会に復帰した。震災の復興とともに歩み始める静かな決意を少し秘めながら。そして日本人としての自分を取り戻すことができた。この時期に日本社会の一員として仕事をする経験があって、本当によかったとしみじみ思う。

年始の職場


1月4日が仕事始めのところが多い日本に対して、ここフィリピンでは一斉にスタッフがそろって仕事が始まることはない。休みの取り方が多様というか幅がある。12月半ばから休みに入り1月9日から始める人もいれば、12月のクリスマス前後の数日のみ休む人、年末ぎりぎりまで働き1月の最初の2週間を休む人までおり、まさにひとそれぞれ。ただしこの時期、どこにいても皆、いろいろな形で何かしらかの仕事をしている。仕事の書類を持ってビーチで1週間過ごしたり職場のPC持参で帰国したりと、現役である限り仕事から完全に解放されることはないのだろう。

それでもやはり、1月第1週に出てくるスタッフは少数のようだ。1月は早目に仕事を始めたかった私は日本人ぶりを発揮して4日に出てきたが、職場はひっそりとしており静かそのもの。その分、仕事もはかどるというもの。これがまたすこぶるいい環境で、これからは休みを取る時期を考え直そうと思ってしまった年始である。

ちなみに、ヨガもまだ休み。教室の入っているビルがしまっているからという理由で12月15日~1月15日まで休みなのだ。昨日そのビルの前を通ったが真っ暗なビルの入り口。文字通りビル全体が眠っているようだった。ということで街はいたって静か。


はや師走。マニラは10月からクリスマスの華やかな飾りがあふれているのであまり季節感を感じないできたが、年末モードに向かい始めている。そうした中、先月は、喪中のはがきをきっかけに何人かの懐かしいお声を聞くことができた。まず、大学の指導教官のS先生と奥様。先生は当時、長年過ごした米国から日本の大学に戻られて一研究室を始めた。一期生である私たちはゼロからのスタートだったが、当時のあれこれが走馬灯のごとくよみがえる。特にS先生の奥様は、お声も昔のまま。温かいお人柄も手紙の文面以上で、電話口で懐かしさを抑えきれなかった。お子さん方の近況もお話された。あの時まだかわいい盛りの小さかった娘さんも年明けにはご結婚とのこと。ひとしきりお話してから先生に替わるとこれまた相変わらず饒舌で、今も現役で大学に通勤されているとか。このままポックリいきたい、とも言われていた。他に友人、知人とも電話で話すことができた。改めて生前の母を覚えてくださる皆さまの温かいお気持ち、人とのつながりを有難く感じた次第である。

同時に、自分の先生が引退される年齢となったことを痛感する。
大学院の指導教官だったT先生もマニラに行く前にお会いしたが、今年の3月で大学を退職され関西に戻られていった。ご実家では98歳のお母様がお一人でいらっしゃるという。以来、年に数回、東京に来られるご様子。

高校の担任だった先生もこの3月で定年退職されると最近聞いた。お祝いの企画があるようだがどうも出れそうにない。それにしても、あの頃はまだ青年というか兄のような存在だった、お若くてハンサムな先生がもう定年をお迎えになるのかと感慨深かった。青春真っ只中の高校時代、先生の前でしでかした数々を思い出すと気恥ずかしくもある。

重なるもので、そうした矢先に留学中の指導教官の逝去のニュースが飛び込んできた。まだ73歳だったというが長いことご病気だったようだ。もう一度お会いすることがかなわず残念だ。

どうも、米国では親しい友人や知人がなくなったときに弔意を示す意味で、団体に寄付をする習慣があるようだ。この先生の訃報の連絡と併せて「寄付はここに」というリンクがはってあった。先日も、お母様のことを思って〇〇団体に寄付した、と米国の親しい友人よりカードが届いていた。日をおかずして、その寄付先からも「◎◎さま(母)のお名前で寄付をいただきました」と寄付のお礼連絡がきていた。日本でいうお香典やお花代に相当する習わしなのだろうか。先生の訃報を受けて、私も弔意を表すために学校への寄付を考えている。

学校卒業後もこれまであちこちでメンターのような先生にお世話になってきたが、文字通り学校でご指導いただいた師はこの4人の先生だった。こうして、師が一線を退いていく報せは往々にして予期せぬ形でくるものだ。私もそれだけ年齢を重ねていることをしみじみを感じる。
プロフィール

Sainah

Author:Sainah
仕事&興味:途上国と開発援助 [セクター] 農業・自然環境・生態系
少数民族、伝統文化、科学・技術、時間管理、組織マネジメント、外国語(☜ 日本語とあわせて日々奮闘中)、海より山、温泉、古いもの好き、ABBA、中島みゆき

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